2014年8月30日土曜日

きょうもイベント(今日はぼくが出る)

先日の記事にほのめかしたが、パブロ・ラライン『NO』の初日最終回前、(18:40くらいから?)ちょっとお話します。(リンクが貼ってある)

初回、2回目は満席になったそうで、良かったら、ぜひ。

2014年8月29日金曜日

イベント続き


を試写会で見てきた。去年の東京国際映画祭で監督賞を受賞した作品だ。アイスランドのある村の人間模様、および彼らの馬との生活を描いたものなのだが、独特の味を醸し出していて面白い。人物たちが何かやるたびに遠くの隣家に視線を送る。すると、どの家でも太陽光を反射して鏡だからガラスだかが光っているのが見える。皆、双眼鏡で隣家の様子を観察しているのだ。

中心となるプロットはコルベイン(イングヴァル・E・シグルズソン)と未亡人らしいソルヴェーイグ(シャーロッテ・ボーヴィング)の大人同士の恋の行方。白い馬を愛でるコルベインはそれを駆ってソルヴェーイグの家に向かう。周囲の者たちが双眼鏡でその様子をうかがう。家に着くと中に迎え入れられ、息子と母ともども食事をする。ほとんどセリフらしいものはない。双眼鏡で覗く者の視点に立っているからだ。ふとした拍子に切り替わり、室内が室内から描かれることがあるが、そのとき、ソルヴェーイグはただ楽しそうに笑っているだけだ。この辺の演出も面白い。

いざ帰る段になってコルベインが愛場に跨がり、走り始めると、しばらくして馬は立ち止まる。最前から暴れていたソルヴェーイグの家の馬に反応してのことだ。馬は柵囲いを突き破り、白馬のもとにやって来て、交尾を始めるのだ。もうこの一瞬の出来事だけでこの映画の勝利は決まったようなもの。やられている(失礼!)白馬にまたがるコルベインすらもがやられた(失礼!)ような、恍惚の表情で身動きひとつできない。事を済ませた雄馬もまた、すっかり恍惚の態。しばらくは動くことすらできないのだから、面白い。

この映画の本領は、コルベインとソルヴェーイグそれぞれが、そんなおソソをしてしまった馬に対して取った処置に現れるし、それがクライマックス直前のシーンへとつながるのだが、それはまあ、ここでは語るまい。

11月上旬、公開だ。シアター・イメージフォーラムほか。午年の最後を飾る作品。

ついで池袋に向かい、トークセッション「これでわかるクッツェーの世界:『サマータイム、青年時代、少年時代』とクッツェーの文学」byくぼたのぞみ×田尻芳樹×都甲幸治@ジュンク堂書店 に行ってきた。表題に掲げられた「自伝的」3部作の刊行を記念してのイベント。ポストコロニアル×ポストモダンな局面だけではないクッツェーの魅力を拝聴する。

田尻さんは『恥辱』の最初の3行を読んでからやめられなくなったのだという。彼が原書で読んだその箇所を鴻巣友季子の訳でたどれば、「五十二歳という歳、ましてや妻と別れた男にしては、セックスの面はかなり上手く処理してきたつもりだ」。

うむ。ぼくも最初に読んだクッツェーはこの作品だったのだが、読み返してみると、この主人公の年齢に近づいている自分に驚く。そしてぼくはむしろ同じページの最後の文章に唸る。ここで主人公はソラヤという娼婦の常連であることを語っているのだが、その彼女について、「歳からすれば彼のほうは父親といっても通る。とはいえ、理屈からいえば、男は十二歳でも父親になれる」(早川書房、5ページ)。


さすがだ。

2014年8月26日火曜日

映画三題

マーク・ロマネク『わたしを離さないで』(イギリス、アメリカ、2010)を見たのは、クローン技術と小説のことを考えるためだ。クローン製作をする科学者が語り手となっている小説を訳しているので、いろいろなものをと思ったのだ。ウエルベックの『素粒子』やイシグロのこの原作、それぞれの映画化作品も見ておきたいな、と。

ところで、パブロ・ラライン『NO』(チリ、アメリカ、メキシコ、2012)は1988年のチリでのアウグスト・ピノチェト大統領信任の国民投票を描いた作品。アントニオ・スカルメタが脚本にかかわっている。これの劇場公開初日最終回の前、ヒューマントラスト・シネマ有楽町でちょっとしたお話をすることになった。ひょんなことから。20分ばかりも背景や拡がりなどを説明するのだ。


そして、えいがといえば、ついでに、こんな講座を担当する。よかったらどうぞ。

2014年8月19日火曜日

ご当地映画、との意識はぼくにはないのだが……

河瀬直美というと『萌の朱雀』の印象が強いのか、山のざわめき、森のささやきを撮るシネアストだと思いがちだ。その彼女が、実は親をたどるとそこに行き着いたという奄美大島を舞台にした映画を撮るとなれば、うむ、これは観てみようと思うわけだ。今度は彼女はサトウキビのさざめきと波のうねりを映像化したのだった。

河瀬直美というと、ロケ先に深く入り込んで脚本を書き、派手なキャストは使わず、むしろ市井の人々を起用して不思議な演出をするシネアストとの印象が強いのはやはり『萌の朱雀』のせいなのか? 今回、確かに、松田美由紀、杉本哲太、渡辺真起子に常田富士男まで起用して普通の映画なのだが、それでもやはりそこは独特な演出が効いていたのだ。何というのだろう、プロの役者の見せる安定した、演技として自然な(しかし自然な振る舞いとして不自然な)それでもなく、素人や駆け出しの役者の見せる演技としても自然の振る舞いとしても不自然なそれでもなく、なんだか間が面白い。意外にそれは、スッピン(もしくはそう見えるメイク)の俳優や環境音(木々や波のざわめき)との関係、映像との関係などから産み出されるものかもしれない。うまく把握できていないけれども、そんな気がした。

物語は高校1年生のカップルそれぞれの母との決別/和解を扱ったもの。界人(村上虹郎)は離婚した母・岬(渡辺)に連れられて東京から島に来た。父・篤(村上淳)は東京で画家を目指しながらも彫り師をやっている。物語は界人が海に浮かぶ刺青の入った全裸の水死体を見つけるところから始まるのだが、彼はその水死体に囚われているらしい。物語も終盤になって明らかになるのは、それが母の愛人ではないかと疑っていたということだ。杏子(吉永淳)は死の床にある母・イサ(松田)との別れの準備ができないでいる。ユタ神であるイサは命は受け継がれるものだとの世界観を伝えようとするのだが、高校生1年生にはすぐに納得できるはずもない。

と、概要を書いてふと思ったのだが、演出の不思議さというのは、たとえば、実の親子である村上淳と虹郎を劇中の親子として、離婚して自分を捨てた父親として対峙させているところからも来ているではなかろうか。父に運命の出会いの意味を問う息子は果たして村上虹郎なのか界人なのか、一瞬、説明がつかなくなるような表情をする。(ちなみに、虹郎の母、淳の妻UAも親は奄美の出身だ。彼女もかつて朝崎郁恵に↓の「いきゅんにゃ加那」を習っていたのをTVの深夜のドキュメンタリーで見たことがある)

死の床でイサは「いきゅんにゃ加那」を歌えと懇願する。それに応えた周囲の人々はさらに八月踊りまでしようと言い出す(オープニングに披露される踊りは「さんだまけまけ」だと認識できたのだが、この時の曲はなんだったか?)。〆に六調まで踊り出す。こうした細部を観光案内的だとみる人はいるかもしれない。けれども、恋人との別れ歌と解釈できる歌と、要するに盆踊りである八月踊りで死者を送りだすというのは、死というものに対するひとつの解釈なのだと思えばいい。

重要なポイントを担っている要素の一つは山羊をしめるシーン。オープニング・シークエンスと中ほどに出てくる。常田富士男の亀じいが山羊の喉を切って血を出し、殺すのだ。それを若いふたりと杏子の父・徹(杉本)が手伝い、見守る。山羊はなかなか死なずに、悲痛な声を挙げている。界人は顔を背ける。杏子は閉じていた山羊の目が見開かれた瞬間、「魂、抜けた」と叫ぶ。次のシーンでは杏子たちが家族3人で山羊汁を食べているのだ。冬瓜と一緒にスープにしたものを。食物連鎖と命の、魂の連鎖。



そうそう。ロケ地の用安海岸からは決して見ることのできないシーンが、この映画には、一瞬だけ出てくる。それが美しい。それが何かは、地図を見て考えてくれ。

2014年8月17日日曜日

SIMロック・フリーの時代の到来

ちょっと前に、アップルが特に何の前触れもなく、突然、アップルストアでのWifi+LTEのiPadを発売し始めた。

つまり、SIMロック解除のものを日本でもついに発売したということ。

ところで、以前からe-mobileのポケットルーターを使っている。e-mobileはいつの間にかY! mobileになった。現在のルーターは2年が経過したので、新型のやつを買った。ビックカメラの店頭で買ったのだが、そしたら、マイクロSIMカードが2枚もプレゼントされた。IIJmíoと契約すれば使えるらしい。

うむ。SIMロック・フリーの時代なのだ。それを前提としてこんなプレゼントが成り立っている。

……そのわりにY! mobileルーターは7GBの帯域制限がかかり、月にそれ以上使用したら、翌月まで通信速度が遅くなるという。前の機種はSIMロック・フリーだから、たとえば海外でその地域のカードを入れれば使うこともできるので、もっていてもお得ですよ、と言われたのだが、そのわりに新機種はそんなことなくなるんですけどね、とも。

……うーむ。何が前進であり、何が後退であるのか……うーむ、わからん。

そんなわけで、ビックカメラからもらったSIMカード、ぼくは要らないのだが、……それにマイクロSIMなのでiPadでは使えない。iPadはナノSIM。うーむ……


ところで、まだ還暦でもないのに、赤ばかりだ。赤の季節なのだ。

2014年8月13日水曜日

夢を見てきた

12日に日本イスパニヤ学会の理事会が京都であったので、前後、京都に泊まる。京都に泊まるといっても、そんなに観光らしいことをしているわけではない。でも、ともかく、会議の翌日、今日は夢を見てみた。

夢というのは、たとえばこういうことだ。

こういうもののとなりに突如として実現するものだ。

こんな庭に現れるものだ(といっても、この狸ではない)。

南禅寺の紅葉越しに眺める本堂だ。


これは夢というよりは幸せ。つまり幸せとはアップルパイのことだ。

2014年8月10日日曜日

斎藤美奈子の冴え

このところ、縁あって昔の友人たちに会う日が続いた。会えば会うだけぼくは孤独に陥る。

『早稲田文学』2014年秋号には「若い作家が読むガルシア=マルケス」という特集があるのだが、「新世代の幻想文学」というのももうひとつの特集で、それ以外にもクッツェー、デリーロ、ノーテボーム、トルスタヤらの翻訳、松田青子、多和田葉子、蓮實重彦……と執筆陣も豪華な上に、田中小実昌の未発表原稿まで掲載されていて、これが何より嬉しい。

が、ここで記しておきたいのは斎藤美奈子「村上春樹の地名感覚ーー中頓別の事例から」(198-202)

初出時、物議を醸し、単行本『女のいない男たち』に収録されるに際して書き直された「ドライブ・マイ・カー」(『文藝春秋』2013年12月号)の問題を扱っている。北海道の中頓別町というところの出身の登場人物が、タバコを窓から投げ捨てたことに対し、語り手もしくは視点人物が「たぶん中頓別町ではみんなが普通にやっていることなのだろう」と考える一節の問題だ。これに中頓別町議が連名で抗議、作家は素早く対応して、謝罪を発表し、単行本では上十二滝町という架空の地名に換えたのだった。

これに対し、大別して①フィクションなんだから目くじら立てるな、②せっかく中頓別町が全国に、全世界に知られるチャンスだったのにそれを逸した、という2つの反応があったとまとめるところまでは、おそらく、誰でもできるだろう。が、そのいずれも否定するところが斎藤美奈子の冴え。さらには②のタイプの反応を「あまりにも広告代理店式の発想で鼻白む」と評するところなど、虚を突かれるのだ。

「車がなければ生活できない」場所で、しかも「一年の半分近く道路は凍結する」、そんな町で「十代の初めから車を運転」していたからテクニックだってうまくなる、というこの問題の中頓別町出身の女性運転手渡利みさきの説明が、フィンランドから優れたカーレーサーが多く輩出されたことの説明として引き合いに出される「フライングフィン」の言説なのだとしてそこに一種の「オリエンタリズム」を読み取るに至っては、目から鱗が3枚くらいは落ちる。

「ドライブ・マイ・カー」は、その運転手みさきに、家福という人物が自らの死んだ妻のことや、その妻と浮気していた人物との奇妙な友情関係のことを語るという内容で、ぼくはここに、誰かが別の誰かに自分の体験を語るというだけでひとつの短編小説は成立するという、そのパターンのみを読み取っていた。うーむ。教えられたのだった。


ところで、この点に関して、単行本では、村上春樹が珍しくまえがきを添え、いささか抽象的に触れている。これなど作家の意趣返しのようにも思える、というのがぼくの当初の感想。謝罪でも、単行本読者に対する丁寧な説明でもない、意趣返し。その「意趣返し」の嫌味さも少し気になるところではあるのだった。

2014年8月4日月曜日

見えないものは怖い

7月31日から8月1日にかけては研究室の合宿に行ってきた。その後ばたばたあったので、報告できずじまい。代わりに(ではないか?):


を見てきた。これのトレイラーが、ゴジラの正体を見せずにゴジラの恐怖を伝えるというもので、とても面白そうだったので、これは是非、と思ったわけだ。本編でもゴジラ(とその敵となる新怪獣ムートー)はなかなか姿を見せない。見せたと思ったら、車の中から、テレビの画面の向こうに、等々、もどかしいしかたでしか見えない、といった視点の切り替えがある。比較的視界が広く確保できるときでも、怪獣たちがビルの影に隠れたり、上空に飛んでいったり、海に潜ったりするから、もどかしくてしかたない。それがすごくいいのだ。恐怖はいや増す。

ぼくはあまり映画(や小説)に比喩的な意味を読み取るのは好きではない。ゴジラが水爆からできたという設定なのは誰もが知る前提であって、そのことにそれ以上の意味を見出したくはない。が、この映画はそんなぼくの矜恃などあざ笑うかのように、あからさまに3.11以後を強く意識させる設定だ。

日本のジャンジラという架空の地のスリーマイル式のような溶鉱炉を持つ原発が倒壊。そこは退避地域とされるが、その事故で妻(ジュリエット・ビノシュ)を失った科学者ジョー(ブライアン・クランストン)は、15年もその事故原因を探り、実はもう放射線は漏れていないその地域がモナーク計画という国を超えた秘密のプロジェクトに利用されていることを突き止める。モナーク計画で指揮を執る科学者が芹沢猪四郎(渡辺謙)。実はゴジラではなく、原発から栄養を摂る新怪獣ムートーの研究をしているのだった。

このジャンジラの設定とか、ゴジラが最初に現れるときに起こす大波(津波だ、これは)とか、この想像力は明らかに福島第一以後のものだ。これをこのタイミングでハリウッドが作った(ハリウッドだからこそ作りえた)ことに、ぼくらは嫉妬し、怒り、悲しまなければならないのだろうな。

でもまあ、そんなことを考えなくても、繰り返すが、視界を制限して迫り来る怪獣たちの恐怖を表現する見せ方は、ともかく面白いのだな。


(写真はイメージ)