2012年2月29日水曜日

感覚の変化について

何かが頭に引っかかっているのだけど、それが何かわからずにいた。やっと昨夜、就寝直前にわかった。

VWのTVコマーシャルだ。

「いいものを長く使う。それもひとつのエコ」というコピー(そのわりにVWは新しいものを買え、というDMを送ってくるが、まあそのことは問うまい)に乗せて、時計、カメラ、ギター(鉄弦なのに、マーチンのD-28とかギブソンのハミングバードとかではいなのだよな)などの映像が一瞬間だけ映り、そして最後に車のドアを閉める像。それがVWであるというもの。

そこで映るカメラは、たぶん、ライカのM3か何かだと思う。いずれにしろ、銀塩カメラだ。それが背面から写されている。背面にはファインダーとフィルムカバーが見えているだけだ。当然の構成なのだが、これが不思議だ。つまり、このライカ(ということにしよう)を使って撮影している人は、ファインダーを覗かずに撮影しているということになるのだ。おそらく、背面に大きなモニターがあって、それを見ながら撮影するデジタルカメラの感覚でこの人はカメラを構えているということだ。(本当に長く使ってるの?)

映像である以上、演出が必要だ。どんな文章にも嘘があるように、どんな映像にも演出がある。カメラを見せるには見せ方というのがある。人が写真を撮る姿は、顔をカメラにつけてファインダーを覗いている姿勢として、前から撮られていたはずだ。それが今や、後からモニターを見ながらの撮影の構えを写すのが、カメラを見せる最適の演出、構成だと、このCMは言っているのかもしれない。たとえカメラ背面にモニターがなくても、だ。それが映像にとっての本当らしさだというのだろう。

テクノロジーは人間の感覚を変える。人間の認識すらも変える。カメラとは顔を離して構えるのが当たり前だと思う人が、今に現れるのだ。いや、もう現れているのだ。ミラーレス一眼レフにさして興味もなかったのに、ファインダーのあるOlympus OM-D E-M5の発売が発表されたとたんに心動かされているぼくなど、時代に取り残された、旧世代に違いないのだ。左目が効き目だから、ファインダーなんか覗いたら、鼻の脂でモニターを汚してしまうにもかかわらず、やっぱりファンダーを覗かないとカメラを構えた気にならないのよね、などと言っている場合ではないのだ。

2012年2月27日月曜日

飛び出すしぶき、汗、砂……

メディアはテクノロジーの成果だから、以前のメディアにできなかったことを誇りたがる。雨を降らせたり火事を起こしたりということは舞台や小説では現実にはできないことだったので(水は近年では使うけれども)、映画ではともかく水が大量に使われる。やたらと火事が起こる。

そんなわけだから、3Dの技術に映画人たちが飛びつくのは当然で、そのことには期待も不満もない。むしろ、ディズニーランドの『キャプテンEO』から『アバター』まで、なんでこんなに長かったのだ、といぶかるほどだ。

とはいえ、別に3Dに興味があるわけでなし、取り立てて3D仕様の映画を観たいと思ってもいなかったのだが、観たい映画が3Dだったら、そりゃあ観るしかないじゃないか。

ヴィム・ヴェンダース『pina 3D ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(ドイツ、フランス、イギリス、2011)

事前の予告編の最後のふたつ(『009』なんてのがあった!)がすでに3D仕様だったので、その時点でこの視覚装置の特徴は以下のふたつだと実感できた。1 文字が浮き出て見えること。2 飛来するものがスクリーンの枠を超えてぶつかりそうな錯覚を覚えること。爆破物の破片とか、飛沫、昆虫などだ。

ところが、始まってみるとこの『pina』は3D映像のもうひとつの特徴を観客の前に提示してみせるのだった。それが発見。それだけでヴェンダースにやられたと思ってしまうのだ。

ピナ・バウシュの主宰するタンツテアター・ヴッパタールのレパートリーのうち代表的な4作(『春の祭典』、『カフェ・ミュラー』、『コンタクトホーフ』、『フルムーン』)の舞台の模様の合間に、そのリハーサル風景やピナ・バウシュへのインタビュー、劇団員=ダンサーたちの語り、街中や野外でのパフォーマンスをちりばめたのがヴェンダースのこのドキュメンタリーの内容。最初の『春の祭典』が始まる前に舞台を作るその瞬間から、観客は実に得も言われない感覚にとらわれる。3Dによる舞台の奥行きは、どうにもとらえがたいのだ。

網膜への物体の表象は馴染みのものだ。普通の二次元の画面に再現された奥行きは、目で見るそれとは異なるけれども、これにもぼくらは慣れている。ところが、3D映像の持つ遠近感はそのどれとも違って、観るものに不思議な感覚を与える。野外に出るとそういうことはなくなるのだが、劇場の閉ざされた空間は、まるでおもちゃのように見える。

実際、2作めの『カフェ・ミュラー』の舞台がいつの間にか模型に変わって森の中に置かれ、それをふたりのダンサーが覗き込む、という展開など、はっとさせられたものだ。

そんな映像の仕掛けの中で展開されるのは、バウシュの偏執狂的なパフォーマンスの数々。関節が、いちいち手で触れて動かさなければ動かない、とでも言いたげに、微少なレベルで自覚され、そうした動きが、まるで世界を発見したばかりの子どものように、といえばいいのか、シーシュポスの仕事のように、と言えばいいのか、ともかく何度も何度も繰り返される。そうした繰り返しの動きの単位から場が構成されてひとつの物語が紡がれていく舞台。

みごとだ。

みごとであると同時に、なんだかおかしくもある。悲愴でおかしい。その舞台がすてきなのだな。モノレールでのパフォーマンスなどどこかのお笑い芸人(たとえば松本人志だ)のしわざかと見まがうもので、ぼくは小さく笑っていたのだった。

ところで、ピナ自身の踊る『カフェ・ミュラー』と『ダンソン』、それに何だったかのリハーサルで稽古をつける場面があるのだけれども、ピナ・バウシュはダンサーとしても圧倒的な存在感だなと思うのだった。

写真は通常よりもかなり高い値段の映画パンフレット。

2012年2月24日金曜日

おのれの影を撮る男

今日はマフラーも手袋もセーターも、いちいち邪魔だと思った。そんな陽気と知らず、確定申告書の提出に行った。

とって返して日比谷。文字どおり撮影。影を撮ってみた。

ロマン・ポランスキー『おとなのけんか』(フランス ドイツ ポーランド、2011)

このあいだ『ゴーストライター』を観たと思ったのに、もうポランスキーの新作を観ている。これが実に面白い。子ども同士のけんかで、加害者の両親(ケイト・ウィンスレット&クリスフ・ヴァルツ)が被害者の両親(ジョディ・フォスター&ジョン・C・ライリー)の家に話し合いに来て、和解が成立、加害者の両親が立ち去ろうとしたところで、ちょっとした言葉のやりとりが発端でふたりは居座り、とことん話をつけることになり、それぞれが3方向とけんかしたり少し歩み寄りを見せたり、……というコメディ。もともとヤスミナ・レザがフランス語で書いた戯曲が原作。加害者の両親のアパートを舞台とした展開は、なるほど、戯曲だ。

少年同士のけんかを無音で、ロングショットで捕らえた説明的なシークエンスから幕を開ける。これがよけいな説明かな、とも思うが、そんなこともなくて、きっとこれは映画化にあたって挿入した要素なのだろうけれども、ラストに笑わされる。この少年のうちのひとりはエルヴィス・ポランスキーという名だったから、監督の孫かなにかか? 

メディアは先行するメディアを取り込む。印刷物(書物)は手書きの文字(手紙)を取り込む。小説は日記と手紙を取り込み、映画は鏡と写真、小説を取り込む。

ガブリエル・ガルシア=マルケス『コレラの時代の愛』の優れているところは、主人公フロレンティーノ・アリサに電報技師という職業を与えておきながら、彼とフェルミーナ・ダサとの恋愛は手紙の範囲内に閉じ込めておこうとする、その明らかな時代・メディア意識にある。フェルミーナが最初の交際から51年9ヶ月と4日後にまたフロレンティーノの愛を受け入れようと決意するとき、すでに電話が引かれていたにもかかわらず、故障しているという理由で手紙で連絡するようにと言うのだ。

『羊たちの沈黙』のレクター博士はクラリスに、最後は手紙を書く。ところが映画化作品では彼はクラリスに電話をすることになっている。手紙を書くか電話をするか、それが小説と映画を分かつもの(リカルド・ピグリア——の登場人物——によれば、電話を小説内で利用した最初の小説家はヘミングウェイだとのこと)。

さて、かつてクラリスだったジョディ・フォスターがほとんどスッピンで出ているポランスキーのこの映画は、電話を、その伝達内容がプロット内で作用するという意味でではなく、電話そのもののメタ・メッセージ的領域での性格をうまく利用して面白い。早い話、訴訟を起こされそうになっている製薬会社の顧問弁護士であるアラン・カウワン(ヴァルツ)が、口論の最中、始終携帯電話に連絡を受け、話が途切れ、他の3人がますます気まずくなり、神経を昂ぶらせていくのだ。観客も太ももがムズムズしてくるのだが、めっぽう面白い。電話って本当に周囲をいらいらさせる。そんなことを思い出させる映画だ。


2012年2月19日日曜日

悪態をつく日曜日

それにしてもこの多忙さはいったいどうしたことだ! と思う。ぼくは絶望している。

しばらく更新を怠っていたが、一週間前、神戸に行き、その翌日、神戸市外大で博士論文の審査をしてきた。つまり日曜は神戸で一泊したということだ。卒業生で神戸および宝塚在住のカップルと食事し、酒を飲んだ。翌日の審査が午後からで良かった。

月曜日の博士論文審査後は旅行を楽しむ余裕もなく帰宅、翌日にはぼくの勤める大学で修士論文の審査。三件。水曜日はシラバス記入の締め切り日だというのに朝から会議ずくめ。

その後は一心不乱に試験やレポートの採点をしている。目がしょぼしょぼする。

で、今日は散歩がてら買ってきた。
フンボルト『自然の諸相:熱帯自然の絵画的記述』木村直司編訳(ちくま学芸文庫)
アラン・ソーカル、ジャン・ブリクモン『「知」の欺瞞:ポストモダン思想における科学の濫用』田崎・大野・堀訳(岩波現代文庫)
パヴェーゼ『流刑』河島英昭訳(岩波文庫)


ほかに、やはりちくま学芸文庫の『ゴダール映画史〈全〉』も買いたかったけれども、アマゾンに注文して到着を待っているところなので、買わずにおいた。

フンボルトは「編訳」と書いてあるのだから、全訳ではないのだろう。フランス語のファクシミリ版2巻本は研究室にあるので確かめていない。だが、少なくとも、「草原と砂漠について」「オリノコ川の滝について:アトゥレスとマイプレスの急流地帯」「原始林における植物の夜間生活」などは訳されているから、とても助かる。

メアリー・ルイーズ・プラットが、その『帝国のまなざし』で、カルペンティエールの作品(『失われた足跡』)の中にフンボルトの痕跡を読み込み、それがとても面白かったので、ぼくはかつて、上にほのめかしたファクシミリ版を数万円出して買ったのだった。写真に映っている大判の本は『キューバ島についての政治的試論』の同じくファクシミリ版。図版がとても美しい。

さて、その『自然の諸相』。アプーレ川とオリノコ川の合流地点あたりで犬がいなくなったことを想起しながら、フンボルトはこう述べる。「(略)われわれはそれがジャガーに食い殺されてしまったのかどうか不確かなまま、蚊のむらがるエスメラルダ布教村からの帰途、ふたたび同じ場所で一夜を過ごすことにした。愛犬はいくら探しても見つからなかった。至近距離にふたたびジャガーの咆哮が聞こえた。凶行に及んだとのと同じジャガーに違いなかった」(126)こうした論法をしてプラットは本当は近くにあるのに踏み込みもせずに、目に見えない大いなる自然、といったステレオタイプを作っていたのだと批判したのだった。

大いなる自然もともかく、ジャガーが犬を食ったのかどうか「不確か」だと述べたすぐ後に、「ジャガーの咆哮」が聞こえると、「凶行に及んだのと同じジャガーに違いなかった」と断言するところなど、たとえば、食人行為についての論法を思わせる。こういう非論理的な論法が、むしろ人々に何かを植え付ける効果があるのだろうな。

それとは別に、その直前にとても面白い記述がある。

 上述のように、スペイン語は自然を記述するさまざまな語彙に際立って富んでいるにもかかわらず、モンテ(monte)という同一の言葉が同時に山と森、丘(cerro)、山岳(montaña)、森林(selva)に対して使われる。アンデス山脈が真にどれだけ幅があり、東方へ最大どれだけ延びているかに関する論文のなかで私が示したように、モンテという言葉のこの二義性がきっかけとなって、イギリスの広く流布したある美しい南米地図が、平原を高い山脈で覆ってしまった。他の多くの地図の根底におかれているラ・クルース・オルメディラのスペイン地図はカカオの森(Montes de Cacao)を図示していた。ところが、カカオの木が暑い低地しか求めないにもかかわらず、そこにコルディリエーラ山系ができ上がってしままったのである。(124)

最後の「コルディリエーラ山系」というのは山系(Cordillera コルディリェーラ)のことか? それともカナダのあれか? それで話は通じるか? それはともかく、言葉の多義性ゆえに確定できない現象がある。monte。今まさにぼくが悩まされている単語だ。monteとかfirmeとかcayoとか……この多義性にフンボルトは挑み、熱帯雨林やらリャノやらを仕分けていくのだな。みごとな手並みだ。

2012年2月9日木曜日

立ち尽くす木曜日

ぼくがコーディネーターを務める授業「表象文化とグローバリゼーション」の試験が今日終わった。その答案とぼくの担当する「アメリカ文化論II」のレポートの総和。

これにスペイン語約80人×3枚の答案があり、卒論があり、修論があり……

人はぼくに何を望んでいるのだろう?

こんなところで期待に応えたくはないぞ。

アメリカ合衆国大統領は1日500ページばかりも書類を読む、と聞いたことがある。

なんだ、こんなの、1日分じゃないか。あははは。

軽い軽い……

2012年2月8日水曜日

記憶の曖昧なるを嘆く

今日手に入れた本ども。

ダニエル・アラルコン『ロスト・シティ・レディオ』藤井光訳(新潮社)
(藤井光の仕事ぶりは凄まじい!)
ダン・コッペル『バナナの世界史:歴史を変えた果物の数奇な運命』黒川由美訳(太田出版)
(バナナ好きだから買ったのではない)
オルハム・パムク『わたしの名は赤〔新訳版〕』上下、宮下遼訳(ハヤカワepi文庫)
(『わたしの名は「紅」』だった。「 」が取れただけでもすばらしい)

そして何と言っても、トマス・ハリス『羊たちの沈黙』上下、高見浩訳(新潮文庫)。
(以前は一巻本だったと思う。活字を大きくして2巻に。新版だ)

これは映画を最初に見た。メキシコにいるときで、休みを利用してやって来た友人が、飛行機の中で読むために買った原作本翻訳を借り、ひと晩で読んだのだった。そして、原作より映画の方が面白いと思った。その理由はいくつかあるが、最後のページが特に、そうだと思ったのだ。このページを映画で再現しなかっただけでも、映画は成功だと思った。そのことをある授業で話すために、読み返そうと思って、買った。最後のページとは:

 はるか東のチェサピークの岸辺、古い大きな家の上の澄んだ夜空の高みに、オリオン座がかかっている。その家の一室では翌朝までもたせるべく暖炉の火に灰がかけられ、その埋もれ火の光は屋根の煙突を撫でる風の強弱に応じてかすかに揺れている。大きなベッドは幾重にも重なったキルトに覆われ、その上と下に数頭の大きな犬が横たわっている。それに加えて寝具の下で盛り上がっているふくらみはノーブル・ピルチャーなのかどうか、淡い光の下では見定めがたい。が、枕の下の顔、暖炉の光で薔薇色に輝いている顔は、クラリス・スターリングのそれにちがいなく、彼女は子羊たちの沈黙に包まれて、いま、深く甘美な眠りに落ちている。(下、320)

あれ? こんなんだっけ? ぼくの記憶の中では、暖炉の赤々と燃える火を背後にクラリスが蝶博士ピルチャーとセックスしているという記述だったように思ったのだけどな? それでぼくはアホか! と叫んだのだけどな。そこまでひどくはなかったな。

でもまあ、この終わり方、これを問題にしたいのだ。

この前のページもなかなか考えさせられる。レクター博士がクラリスに手紙を書いているのだ。映画では電話をかけていた。この処理(もっぱら映画の側の、ということ)はすばらしい。

ちなみに、写真で本の間に渡した万年筆は、サイズを示すための指標。

2012年2月7日火曜日

スクランブル

水曜日は教授会の日だ。

すべての大学がそうだというわけではない。たとえば以前勤めていた法政大学では経済学部は金曜日に教授会があった。

少なくとも言えることは、このように教授会がある日は、専任教員は授業が持てないということだ。大学が週に5日授業日があるとするなら、実質、週に4日くらいが授業日になるのだ。

授業がなくなると教授会の曜日は一定しなくなる。入試などの日程に合わせてばらばらな曜日に開催となる。スクランブル発進になるのだ。

しかるに、今日、まだ授業も終わっていないのに、ふだんと異なる曜日に教授会があった。

なんだか調子が狂うのである。体内時計が修正を余儀なくされるのである。今週はなんだかとんでもない間違いを犯してしまいそうな予感がするのである。

写真は、イメージ画像。特に意味はない。

2012年2月6日月曜日

サービスのバツの悪さについて

本来行かなくてもいい日だが、いろいろと用があって大学に行った。途中、奮発して昼食に寿司を食べた。

奮発して、と言っても、たかだか回転寿司だ。回転寿司と言ったってふだん食べている手作り弁当に比べれば高くつく。だから奮発だ。サバが食いたかったのだ。

駐車場に入ったときから、サバとは別に、そのことの予感がしていた。アオサの香りが鼻腔によみがえり、食べたいと思った。

お、案の定! 店の奥のお薦めなどが書いてある掲示板にはアオサの味噌汁が告知してあるじゃないか。これは頼むに限る。

勢いいさんで手を挙げたら、出てきた。ランチタイムのサービスとしてのつみれ汁。

……

つみれ汁。嫌いではないよ。むしろ、鰯好きのぼくとしては好きだと言ってもいい。が……

サービスというのは、受ける方としてみれば、時に、実にバツが悪いものである。

スーパーマーケットなどで、レジ袋は2円取るくせに、そのレジ袋を要らないと宣言した者にまで、野菜や汁物のパックに小さなビニール袋をつけようとする。そんなものだ。キャシャーに悪気はない。むしろ、善意なのだ。サービスなのだ。が、その善意、不要なときもあるのだよな。

ぼくはRTVE(スペイン国営放送)やTelevisa(アメリカ大陸最大のメディアネット)のiPhoneやiPadのアプリで時々ニュースなどを見ている。映像も文字の記事なども参照できる実にすぐれたアプリで、これが無料だ。ふと思い立って探したら、日本のTV局など、これに類するものを持っていない。NHK-Woridはかろうじてあるけど。こういうバツの悪くならないサービスは、ないんだな。