2011年3月31日木曜日

去りゆく友人を泣く

2008年の10月最初の教授会の日、震えたのだった。空気が。大学が。ぼく自身が。ぼくの目の前に髪をボブにした若く美しい女性が座った。

「矛盾だ」とは美禰子を前にした三四郎のつぶやき。ぼくもつぶやいた。「矛盾だ」。

それが誰であるかは、座っている位置(ぼくの目の前というよりは、ぼくのはす向かいに座った人物の横、という意味)や、挨拶する相手から、すぐに察しがついた。事前に新任の先生のプロフィールは教授会で閲覧される。だからそんな人物が来ることは知っていた。彼女はぼくより10歳若かった。そして既に著書が一冊あった。ぼくたちにとっては著書(できうべくは学術書)の有無、その数が業績になる。言い換えれば、ぼくたちの研究者としての商品価値になる。そしてまたそれはぼくたちの人生でもある。40を超えてやっと著書を一冊出したばかりの怠惰なぼくにとって、10歳も若くして著書があるなど、羨望の的だ。分野が違うからいいようなものの、同分野であれば、ぼくは嫉妬の炎に焼かれたことだろう。そんな優れた研究者が、これがまたずいぶん若く潑溂たる表情の女性だったわけだ。「矛盾だ」とのぼくのつぶやきは、見た目についても劣等感に苛まれている(すでに初老の佇まいを見せる疲れた表情の)ぼくの、そんな叫びだったはずだ。矛盾だ。

かりに彼女をYとしておうこ。事実、Yは矛盾だった。彼女は北アイルランド連合維持派(ユニオニスト)の歴史を辿る学者であった。しかして彼女がその日そこにいたのは、多言語・多文化教育研究プロジェクトを担当する任期付き教員として赴任してのことだった。ぼくもそこの事業に、ほとんど詐欺のように引き込まれて、ある仕事を時々やるはめになっていた。つまり彼女は、ぼくの仕事を増やすためにやって来たと言ってもよかった。そしてその実、彼女はぼくからその仕事を和らげてくれることになる。詳しくは語らないが、彼女はぼくの救世主になったというわけだ。矛盾だった。

もともと国立大学法人化と共に始まった競争的経費のひとつであるGPのプロジェクトとして始まったものだ、「多言語・多文化」とは。一定の成果を収め、GP終了後に同じく時限つきでセンター化されたものだ。そこの運営にYは雇われたのだ。

ぼくもGPでは散々な目に遭っているので、苦労がしのばれるところだ。GPは学生支援のプロジェクトといいながら、学生の活動にはほとんど金を出せない仕組みになっているという矛盾も抱えている。しかし「多言語・多文化」は多くのボランティア学生とうまく協力してきた。東京近辺の小中学校や地域団体での教育支援要員を派遣してきた。それだけでも大変な仕事だ。そして困ったことに、これが学生たちに実に人気のある事業なのだ。Yはその事業に積極的に取り組み、学生たちの信頼を得ていった。

授業も持った。授業でも人気があった。少なくともぼくとつき合いのある学生たちはかなりの割合で彼女自身の授業と、彼女がコーディネートする「多言語・多文化センター」主催の授業プログラムのいくつかを受講している。そして、好印象を持っている。「Y先生がいれば外語の偏差値、50は上がる!」とはある学生の言。ま、それはいくら何でも言いすぎだけどね(だって、それじゃあ、偏差値の序列で最下位から最上位になると言っているようなもの)。ことほどさように、信頼を得ているということ。

好評を博していても、これはYにとって、少なくとも本意ではなかったはずだ。彼女の本職はプロジェクト運営などではないからだ。競争的経費(COEやGP)は教員が書類仕事に忙殺されるという矛盾を引き起こす。研究でも教育でもない、ひたすら書類を書くのだ。誰に向けてのものかもわからない書類を。文科省が大学教員を自分たちの下っ端の公務員ていどにしか見なしていないのだろう。Yは、いわば、この矛盾を抱え込むためにやって来た。

今年、「多言語・多文化教育研究プロジェクト」は年限を終える。事業は形を変えて継続はされるが、少なくともYは任期を終え、センターを去る。

大学教員の停滞からもたらされる不真面目さが弾劾され、大学改革の流れが始まった。国立大学が法人化された。競争的経費が導入された。それがもたらした結果がこれだ。研究業績が優れ、教育面でも学生に人気の人材が、任期が切れたという事務的理由で大学を去る。次の行き先は決まっていないらしい。

おそらく、これはひとり東京外国語大学の問題ではない。東京外国語大学は実に小さな、吹けば飛ぶような国立大学だ。この流れに逆らえるほどの体力はない。それを押しとどめるほどの存在感もない。そして、しかしこれは国立大学のみの問題でもない。全国のあらゆる大学が、これから第二のY、第三のYを生み出していくだろう。いやあるいは、Yはすでに第二のX、第三のXなのかもしれない。Yとは日本の高等教育の組織の矛盾そのものだ。矛盾に潰されようとしている余人をもって代え難い(これがぼたくちの使う常套句。でもこの場合は本気で使っている)人材のことだ。

2011年3月31日、彼女は「職を解く」との辞令を受け取るだろう。そのとき大学は、我が大学は、日本の大学は、大切な何かを失うのだ。ぼくは日本の高等教育を嘆く。そしてYを泣く。

2011年3月29日火曜日

到着

今日は本来、大学の卒業式が予定されていた日だ。式は取りやめになり、ただ、簡素な学位記の授与だけが行われるらしい。

ぼくはふだんと違う日に予定されたこのセレモニーのことを忘れて、仕事を入れてしまった。西検ことスペイン語検定の成績優秀者に贈られる文部科学大臣賞ならびにスペイン大使賞の授与式の記念講演だ。信濃町の日本スペイン協会で。
で、その前に届いた。これだ。Airtego Mac Book Air 11インチ用ケース

いろいろと入れ物を探して、これまでは少し大きめのケースで、横にポケットがついていて付属品などを入れられるものを使っていたけれども、これがどうにも不格好になるし、ACアダプタなどまで入れるとますます邪魔になる。それで付属品は別に入れて、本体だけがすっきり収まるものはないかと考えていたのだ。ネット検索してみたら、こんなのがあったので、すぐに買った次第。こんなふうに置いて使うことも可能。これをこのままケースとして持ち歩けばいい。

2011年3月27日日曜日

電車内は夏暑く冬寒いものだ

地震後、中央線や山手線や井の頭線などの電車に乗った。このところの節電圧力のせいに違いない、暖房が極力抑えられているか、もしくはついていない。ぼくはそのことをとてもいいことだと思う。混んでいたりすると暑くて仕方がないというのが、このところの電車内の状況だったからだ。実際、ぼくが上京したころの国鉄(当時。現在のJR)の電車なんて、こんな感じだったのじゃあるまいか? 井の頭線など車内の電灯がしょっちゅう消えていたけれども、28年前もこんなものだったんじゃなかっただろうか? 

実際、そうだったはずだ。その思いを強くしたのだった。庄司薫『さよなら怪傑黒頭巾』(中公文庫、2002/1969)によって。

先日報告したような事情で『赤頭巾ちゃん気をつけて』を買ったついでに、4部作すべて、文庫本で買ってみたのだ。それが時間差をもって届いている。第2段は4部作第3段にして実際の発表順からいうと2番目になった本作。昨夜寝る前に再読してしまった。

薫くんがひょんなことから「下の兄貴」の友人の山中さんの結婚式に、兄貴やその他の友人たちとともに出ることになる。山中さんは医学部の出身で、学生時代は学生運動をやっていたのだが、今ではそのころ目の敵にしていたはずの医学部教授の媒酌で結婚をしようとしている。しかもかなり凡庸で、当時流行の仕方での結婚を。そうなるとかつての運動仲間たちがそれを裏切りと見なし、何か襲撃をしかけてくるのではあるまいかとの憂慮がある。実際、欠席者も多いし、出席した連中も実にいやらしい政治的配慮が見え見えの態度で接するものだから、息の詰まりそうな結婚式だ。この息詰まるような結婚式の様子が、しかし、当時の流行なども取り入れる形で活写されていて、実に面白い。その媒酌人の教授にからまれてしまった薫くんがその鼻を明かしてやるところなんかはわくわくしたな。

さて、薫くんはそこで、友人のガールフレンド、お茶大付属あたりに通う「ノンちゃん」とそのつれ「アコ」に声をかけられる。彼女たちはこの息詰まるような結婚式でただ無邪気にはしゃいでいるように見えたけれども、実は式の異様さには気づいていて、憂さ晴らしに薫くんを伴って銀座に繰り出す。そのときの記述だ。10章の書き出しだ。

 それからぼくは、ノンちゃんとアコと一緒に地下鉄に乗って銀座へ行った(地下鉄は三人で九〇円だから、タクシーで百円で行った方がいいわけだけれど、すごい行列だったのだ)。地下鉄の車内は、まあこの丸の内線と銀座線っていうのはいつでも暑いのだが、きょうはとにかくやたらとノリのきいたワイシャツにきちんとネクタイなんてしめてるせいでとりわけ暑く感じられた。(153ページ)

5月の話だ。5月でももう地下鉄は暑いのだ。丸の内線と銀座線は「いつでも暑い」のだ。

ぼくらが高校生のころに派手な火事で焼けたホテル・ニュージャパンとそこにあったニュー・ラテン・クオーターの描写なども出てきて、ここはぼくのじかに知り得なかった東京の様子が書かれているには違いないのだけど、おそらく、その時期からぼくが上京するころまでずっと、電車なんて夏は暑く冬は寒いものだった。電車はそれでいいのだと思う。60年代くらいまでは、映画の中でだって、みんな夏はスーツじゃなくて開襟シャツで扇子なんかを忙しなくばたつかせているじゃないか。それが自然なのだ。(ではいつから電車の中は夏寒く、冬暑くなったのか? やはりJRの民営化以後ではあるまいか? 新自由主義、グローバル化……)

ところで、庄司薫が当時のいわば風俗として取り入れた「口語体」的語彙(主に副詞だな)のうち、「相当」「ちょっと」なんてのは今でも立派に生きているが、「猛烈」はさすがに一時の流行として消え、今では言わない。「当時の風俗」ではないが、「きり」の使い方なんかもだいぶなくなっているなと思うことであった。つまり、たとえば、「そのお店には二度きり行ったことない」というような語法だ。

2011年3月25日金曜日

揺れる劇場……なのか椅子なのか?

下北沢ザ・スズナリで、劇団燐光群、坂手洋二作・演出『裏屋根裏』を見てきた。2002年初演の坂手および燐光群の代表作『屋根裏』をインドネシア、韓国からの俳優を迎え、それぞれの言語、および英語、中国語なども交えて(もちろん、日本語も)の「インターナショナル・リミックスバージョン」として作りかえたもの。オリジナルの『屋根裏』を見ていなかったので、せっかくだから今回、見てきた。

引きこもり、幼女誘拐・監禁、自殺、引きこもりの過ぎた先の孤独死、などの問題を、屋根裏部屋キットに暮らす人々が引き起こす問題として語ったもの。2000年代初頭の日本で、こうしたキットが流行ったという設定。舞台中央にそのキットを置いて、速い場面展開ながら、ほとんどの場面がその狭い屋根裏キットの中で演じられる。人がまっすぐ立ち上がることもできないし、三人ばかりで座ればもう窮屈に見えるほどの広さ、台形をつぶしたような空間だ。演劇と言うにはあまりにも狭い。でもさすがに小劇場なので、見るのに苦労はしない。狭さをうまい具合に利用した動きなどもふんだんに取り入れ、面白い。

こういう設定だと、人はそこにアレゴリーとか何かの隠喩とかを読み取るのだろうけれども、機先を制するように台詞で指摘される。20世紀、日本の家はうさぎ小屋と揶揄されたけれども、21世紀初頭にはわざわざもっと狭い屋根裏が流行した、と。これは仮定の話なのだ。

飽きの来ない2時間10分ほどだった。

ところで、さすがにこの時期なので、上演前、避難場所に関する説明がいつもより丁寧になされた。上演中、地震は起きなかったはずだが、なんだか揺れているように感じたのは、やはり地震酔いなのか? ……なんのことはない。狭いザ・スズナリ。後の人の脚が椅子の背に当たって椅子が揺れていた。たぶん。

夕方はおなじく下北沢で友人たちと食事。明けて今日は車検から戻った車を取りに行った。こんなものをもらった。三脚椅子とその上に鎮座するメモホルダー。

2011年3月24日木曜日

始原に還る、あるいは厄払い

ニーチェは文章を書くことは悪魔払いすることだと言った。われわれ日本人の読者ならば「悪魔払い」を「厄払い」と解するかもしれない。そうなると意味合いは少し和らぐだろうか。だがいずれにしろ、文章にはそうした、心や体に取り憑いて離れない、自らの意志ではどうにもならない他者を引き剥がす作用のようなものがある。

悪魔のような厄のような、心に重くのしかかって晴れない何かを取り除いたときに、一気に過去が取り戻されることがある。プルーストはそうしたものを求めて書き続けたのに違いない。何かを書くことによって過去を取り戻すなら、言い換えれば過去に戻るのならば、進歩史観を取る近代主義者は、これをして後退と呼ぶだろう。またしても日本語の俗な言い方に依拠すれば、そうではない、初心に還るのだ、と反論することもできるかもしれない。オクタビオ・パスならば始原に還ることだと主張するだろう。始原に還ることvueltaとは、これを繰り返せば反乱revueltaとなる。革命revoluciónとなる。過去に浸りきることには大いに問題があろうが、時に過去に立ち返ることは、こうして状況を一変させる強い原動力となる。

私は昨日、庄司薫『赤頭巾ちゃん気をつけて』(1969/中公文庫、2002)のことを語った。小説のある一節に強く心を打たれた経験を告白した。書き終えて風呂に入りながら、私はこの小説を何度も何度も読み返した高校生から大学入学までのころを思い出していたのだった。私はつまり、1980年から1983年の時間を取り戻していたのだ。

そのとき私が思い出したことのひとつは、上京したときに何の本を携えてきたかということだった。そのとき私が携えてきた本は以下のとおりだ。村上春樹の初期の3部作。庄司薫の『赤頭巾ちゃん気をつけて』、サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、ゲーテ『ファウスト』。ずいぶんばらばらな嗜好だと思われるかもしれない。二十歳にも満たない青年の読書傾向に指向性も嗜好もあるはずがないのだ。村上春樹は『羊をめぐる冒険』が前年後半に出ていて、まだそれを読み終えていなかったので、それを読みながら上京してきたように思う。つまり鹿児島空港から羽田空港に向かう全日空のボーイング747の機内でも読んでいたように思う。ゲーテとドストエフスキーは同じく読みかけだったから持ってきた。サリンジャーは荒地出版による『選集』を実家に置いてきたものの、後から親に郵送してもらったはずだ。『ライ麦畑』と『赤頭巾ちゃん』は、それから村上春樹の最初の2作(『風の歌をきけ』と『1973年のピンボール』)は、したがって、再読用ということになる。私はそんなことを思い出した。それらの本を入れたスーツケースの色と形状、手触りまでも含めて、当時を思い出した。

こうして過去を取り返してみると、いろいろな感慨がわいてきた。とりわけ昨日のブログ記事に引用した箇所に強く共感した時の、その感覚を思い出した。庄司薫は、その小説の主人公の薫くんは、知性とはしなやかなものだとの確信を得た。私はそれに強く共感した。爾来、私はしなやかさを持った人にのみ知性を感じ、共感を覚えてきた。目の前の事象や他者に対してしなやかな応対ができる人を尊敬してきた。ドグマやらドクサやらにとらわれて凝り固まった連中を、知性のかけらもないと切り捨てて断罪してきた。

そんな思いを新たにしたことを、昨日の文章に続けて書きたかったのだが、あの文体ではこのことを言うのにかなりの紙幅を要するだろうと思い断念した。こうして文体を変えてみれば、造作ないことだ。このことはまた庄司薫の小説の文体の計算しつくされた強靱さを反語的に証明することにもなる。あるいは逆かもしれない。昨日のあの文体ではニーチェやオクタビオ・パスを呼び出すことを私はできなかった。単に私の文章力の欠如なのかもしれない。それとも庄司薫的(疑似庄司薫的)口語文体の厄(さすがに悪魔とは言うまい)を払い落としたかっただけかもしれない。そんな厄があるとすればの話だが。

2011年3月23日水曜日

あーあ、恥ずかしい。

ちょっと前にこのブログに「あーあ」なんて書いちゃったものだから、それをきっかけにツイッターで質問されて庄司薫のことを連投ツイートすることになったんだ。念のために言うとツイッターってのは1回のツイートで140字までしか書けない。だからちょっと長めに書こうとしたら何度も連続でツイートする必要があるってわけ。

そのときにこんなことを書いてしまった。つまりぼくは『赤頭巾ちゃん気をつけて』の書き出しを完璧に暗誦できるって自慢しちゃった形になったんだ。でもこれを書き終えてからちょっと猛烈に心配になってきた。だってぼくは自分の記憶力を過信して時々間違えたことを言ってふんぞり返ったりして、後でその間違いに気づいて、ギャ、恥ずかしい、なんて思いをすることがよくあるからだ。

でも本当のことを言うと庄司薫の小説なんかもう手もとに持ってなかったから、調べようがないと思った。ところが調べようがないと思えば思うほど気になってきて、もう我慢できなくなって、買っちゃったんだな、文庫本。

買って大正解。というのも案の定、書き出しはぼくが記憶してるのとほんの少しだけ違ったからだ。ほんの少しなんだけど、その少しが問題なんだな。ひやりとしたの何のって。本当の書き出しは、こうだった。

 ぼくは時々、世界中の電話という電話は、みんな母親という女性たちのお膝の上かなんかにのっているのじゃないかと思うことがある。特に女友達にかける時なんかがそうで、どういうわけか、必ず「ママ」が出てくるのだ。(中公文庫、7ページ)

実際には「ママ」は二文目に出てくるのに、最初から出てくると勘違いしていたのだ。これにはいくつか理由があるだろうけれども、このことを考え始めたらそれこそ庄司薫張りにいろんなこと考えて話がまとまらなくなりそうだから、いささか強引に(でも怒鳴らないでくれよ)、ぼくがそれこそ薫くんばりに、不覚にもちょっと感心しちゃったところってのを紹介しておきたい。

それは、まず薫くんが「特に好きな下の兄貴」に、悪名高い東大法学部って何をやるとこかと訊いたら、お兄さんは「要するにみんなを幸福にするにはどうしたらいいのかを考えてるんだよ」と答えて、法哲学の本と思想史の講義プリントを手渡した、という前提があって、この「講義プリント」にえらく感心しちゃった薫くんがそれを作った先生(丸山真男がモデルだと思う)に出会ったときのことを語る場面だ。

 おととしの初夏の夕方のことで、ぼくは下の兄貴と二人で銀座を歩いていたのだが、そしたらバッタリとその先生に出会ったのだ。先生は「やあ、やあ」なんて言ってぼくたちを気軽にお茶に誘って下さったのだが、それから話が次々とはずんで、食事にお酒にと席を変えながらとうとう真夜中すぎまで続いてしまった。もちろんぼくはほとんどそばで静かに黙って聞いていただけなのだが、ほんとうになんていうか、この時ぼくはほんとうにいろいろなことを感じそして考えてしまった。どう言ったらいいのだろう、たとえばぼくは、それまでいろいろな本を読んだり考えたり、ぼくの好きな下の兄貴なんかを見ながら、(これだけは笑わないで聞いて欲しいのだが)たとえば知性というものは、すごく自由でしなやかで、どこまでもどこまでものびやかに豊かに広がっていくもので、そしてとんだりはねたりふざけたり突進したり立ちどまったり、でも結局はなにか大きな大きなやさしさみたいなもの、そしてそのやさしさを支える限りない強さみたいなものを目指していくものじゃないか、といったことを漠然と感じたり考えたりしていたのだけれど、その夜ぼくたちを(というよりもちろん兄貴を)相手に、「ほんとうにこやってダベっているのは楽しいですね。」なんて言っていつまでも楽しそうに話し続けられるその素晴らしい先生を見ながら、ぼくは(すごく生意気みたいだが)ぼくのその考え方が正しいのだということを、なんというかそれこそ目の前が明るくなるような思いで感じとったのだ。そして、それと同時にぼくがしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだというようなことだった。(32-33)

この部分を、ある晩、何度目かに読んだぼくは、大学に落ちていじけるあまりぶらぶらと2年近くも無為に過ごしていたんだけど、そんな非生産的な日々に踏ん切りをつけて、大学に行ってみようと思うようになったのだった。そう言うと大げさかもしれないし、完全に本気にとられてもちょっと困るんだけど、ともかく、この一節は大学に行く決心をしたころのぼくの心をぐんと捕まえたんだ。本当に、これはもう「舌かんで死んじゃいたい」くらい恥ずかしい話なんだけど。

2011年3月22日火曜日

地震に酔い、映画に酔う

アレハンドロ・アメナーバル『アレクサンドリア』(スペイン、2009)

スペイン資本で、脚本には相棒のマテオ・ヒルが入っているし、製作はフェルナンド・ボバイラ。いつものメンバーだが、レイチェル・ワイズを主役に仰ぐこの映画は全編、英語で表現されている。

ぼくはかつて、アメナーバルについて、一貫して生と死の曖昧な境、あるいは引き延ばされた死を扱ってきたと説明した(『映画に学ぶスペイン語』)。そんなアメナーバルのことだから、この人はそのうち宗教へと向かうのじゃないかと思っていた。でもそのときにキリスト教の教義の問題とか、霊性の問題とかをストレートに扱ったりされてもつまらないなと危惧してもいた。『アレクサンドリア』を宗教を扱った映画と見なすならば、古代ローマ時代(400年前後)エジプトはアレクサンドリアのキリスト教徒による図書館焼き討ちのころを扱っているのだから、いわば宗教対立・宗教戦争の話ということになる。これはまた「キリスト教の教義の問題とか、霊性の問題とかをストレートに扱」う地点とはずいぶん離れているものだ。

死を考えるということは自然を考えるということだ。自然を考えるということは宇宙を考えることだ。この映画は死から宗教への視点の移動というよりは、死から宇宙観への飛躍、といった方がいいのかもしれない。ずいぶんと大きな飛躍だけど、宗教だって宇宙観を扱うものなのだから、まあ似たような飛躍だ。

中心となるプロットは2つ。アレクサンドリアに実在した女性哲学者ヒュパティア(ワイズ)がプトレマイオスの天動説を脱し、太陽系の楕円軌道を発見する(これは、フィクション)というもの。次にアレクサンドリア図書館の破壊(391年)、ユダヤ教徒への迫害(414年)、ヒュパティアの虐殺(415年)と続くアレクサンドリアにおけるキリスト教徒の蛮行の歴史。知の立場に立ちキリスト教への帰依を拒否したことがもとで彼女は虐殺されたという内容。また、彼女の弟子たちがローマの長官(オレステス〔オスカー・アイザック。むしろオスカル・イサクと言いたい〕)やキリスト教徒の司教(これは実在のシュネシオス〔ルパート・エヴァンス〕)になり、あるいは奴隷(ダオス〔マックス・ミンゲラ〕)が修道兵士になっていくことによって、それぞれがそれぞれの立場のために虐殺を防げなかった無念を描いて悲劇性を高めている。

こうしたプロットを支えるテーマが、円と楕円の対照。円の調和の美しさに目を奪われるあまり、プトレマイオスの天動説の矛盾を打破する論理を見いだせないヒュパティアが、2つの中心からの和が等距離である楕円の軌道に気づく過程が、聖と俗、つまりキリスト教とローマ皇帝の2つの権力が駆け引きをする政治の場と化したアレクサンドリアの現状と照応するように描かれていく。優れた天文学者・数学者であったヒュパティアの人生を描くにふさわしい、実に美しい図式的脚本だ。

原題はAGORA 言わずとしれた古代ギリシャ・ローマの公共広場だ。真ん中に円(アルファベットのO)を置き、もう少しで対称を描こうとしながらそれが得られないこの字面は、このタイトルの字面までが、この映画に実にふさわしい。

この映画のパンフの表紙。これは伝わっているヒュパティアの肖像画にかなり似せてあるように思う。

上映中に地震があった。幸い、上映中止にはならなかった。でも終わるまでずっと揺れているような気がした。地震酔いだな。

2011年3月20日日曜日

PRするMD

昨日、いつものノートを一冊使い終わり、今日、新しいノートを卸した。

気分を変えたくて、久しぶりにモレスキン(公式サイトもこう表記しているからこれが正しいのかなあ?)でないものを使ってみようという気になった。先日、吉祥寺のLOFTで見つけたMDノートブック。ミドリカンパニー。

なかなか使い心地は良さそうだ。ただ、モレスキンに比べて足りないところがあるとすれば、ポケット。あれには後にポケットがあって、そこにインデックスシールや付箋紙などを入れているぼくとしては、これにそれがないのは不便だ。MDノートには油紙のカバーがあるにはあるが、これがポケット状になっていないので、代替物もない。

で、何かカバーを探した。ぼくは本屋で本を買ってもあの例の紙のカバーを拒否し続けているので、そんなものを持っていない。さて、困った。

……

わっはっは。どうだ! 『映画に学ぶスペイン語』の表紙色校。持ち主の著書を宣伝するノート。所有者の名前まで活字で打ってあるのだから、こんな便利なものはない。

だめかな? ちょっと慎みを欠く? 

 余白に絵でも書いてくれる人、募集します。そしたら実物と勘違いされない。

2011年3月19日土曜日

運がいいのか悪いのか

3連休? 関係ないね。会議日だ、今日は。車を車検に出したので、今日は……今日も自転車で通勤だ。

でも、ぼくはよほど運が悪いに違いない。

途中、所用があって、ある駐輪場に停めた。といっても駐輪レーンがいっぱいだったので、隙間に。

で、用も済ませて自転車を取り出し、走り出した。

しかし、どうも様子がおかしい……見れば後輪がぺったんこだ。

パンクか? 

ぼくのタイヤにはパンク防止剤を入れてあるのだが、降りて自転車を押しながら歩いていたら、いつの間にかそれが出てきていた。よくよく見ると、空気入れのキャップがはずれている。

駐輪場に戻って探したら、キャップはあった。これはまだ望みがあるかもしれない。ぼくは悪運だって強いんだ。この辺はまだ土地勘がある。以前、このあたりに住んでいた。あの辺に自転車屋みたいなのがあったはずだ。そうでなくても、先日自転車通勤した帰り道、どこかで、あ、ここにも自転車屋が、と認識した記憶がある。ということは、先日の帰り道を逆に辿れば、かならずひとつは自転車屋がある。運の悪さはリスクマネジメント能力の高さ、というか、それを裏付けするグラフィック・メモリー(ある映画でこんな語が使われていた。視覚記憶、とでもいうのかな?)で乗り切るしかない。ぼくはそれに関してはそんなに悪くないはずだ。

結局、最初の心当たりで解決した。そこはやはり自転車屋だった。とってもひなびているけれども。もういい年の親父が出てきて空気入れの金具をきちんと入れ直し、空気を入れて、はい、200円ね。

——パンクではないってことですかね? 
——わからないね。外から見ただけじゃわからないんだ。ともかく空気は入ったよ。

陰謀史観に立つならば、ぼくはいわば違法な駐輪をしたので、誰かに(実に邪悪な当局の者に?)意地悪をされて、キャップを外された。
もしくは、通りすがりの愉快犯がキャップを外した。
もしくは駐輪場に停められなかった誰かが腹いせに、一番手近にあったぼくの自転車のキャップを外した。

科学的に考えるなら、空気圧とか、それまでがたがたと振動しながら走っていたことによって空気入れのキャップのねじがゆるんでいた……かどうか、といったことを検証しなければならない。が、そんなこと注意していなかったし計測もしていなかったので、わかるわけがないじゃないか。

おのれを哀れむ愚か者としては、つくづくとぼくは運が悪い、とでも思うしかない。あーあ。

……でも、今日くらいの陽気なら自転車通勤も、あるいは自転車がパンクして徒歩通勤になったとしても、悪くはない。

2011年3月16日水曜日

停電の夜

今日はいわゆる計画停電の3日目。3日目にして初めて本当に停電した。

今日は会議日で、自転車で大学に行ったのだった。家を出たのは11時少し前だったけれども、そのときは晴れた穏やかな天気だったから。爽快だった。

大学に着くと風が渦巻き始めた。参った。寒くなってきた。会議を終えて帰るときには本当に寒くなっていた。しかも向かい風だ。かなりの強い風だ。

途中、いくつかの信号が消えていた。警官が交通整理をしていた。帰りは上り坂も多くなるので、できるだけ労力が少なくて済むルートを辿ろうと思った。そのおかげで、小さな雑貨屋が目にとまった。蝋燭がないか訊いてみた。一番小さいのしかないのよ、とおばさん。ちょっと考えてから、まあ背に腹は替えられないや、いい、それでいい、それください、と答えた。

仏壇に上げる、あのサイズだった。

途中でだいぶ早い時間のうちに夕食を済ませた。帰宅してもまだ電気はついていたので、大急ぎでコーヒーを淹れ、落ち着いた。だが、しばらくしたら、電気が切れた。突然。ぷつん、と音を残して。まだ7時前だった。

やれやれ。

念のため大学に携えていった懐中電灯をバッグから取り出し、蝋燭を取り出した。

そうだ。マーマレードや豆板醤の瓶のフタを、捨てずに流しのわきに置いてあった。

取りに行った。しかし、考えてみたら、5年前に煙草をやめて以来、この家にはライターがない。たぶん、マッチもなかったと思う。はて、どうしたものか……

そうか。コンロだ。台所のコンロで灯をつけた。ビンのフタに灯をつけた蝋燭からロウを一滴たらし、そこに蝋燭を乗せる。昔は停電なんて日常茶飯事とまではいかないけど、よくあったよな、台風の時とか。だから蝋燭の立て方なんかも何にも考えずにできるんだよな、などと思いながら。

4つ5つこうして蝋燭を立ててダイニング・テーブルに置き、充電は充分のMacBookをそこに持ってきて仕事をした。iTunesで音楽など聴きながら。

クロノス・カルテットの『ビル・エヴァンズの音楽』、マリア・ジョアン・ピリスによるベートーヴェンのピアノ協奏曲集など。

なかなか落ち着く光だった。落ち着く雰囲気だった。落ち着く音楽だった。仕事ははかどった。

停電は2時間ほどで復旧した。9時にもならないころだった。

2011年3月15日火曜日

反省

ああ、ぼくなどはやはり学者としては冷静を欠き、直情的でいけないな、と思うのは、こんなブログを読むときだ。

昨日ぼくが怒った石原慎太郎の「天罰」発言。これを関東大震災の時にも蔓延した天譴論(てんけんろん、と読むのかな?)なのだとして、先の大震災時にそれが蔓延した結果、どうなったかを説明している。このブログの筆者をぼくは知らないのだが(田中純のツイッターで知った)、優れた知性の持ち主と見た。学ばなければ。

ここで皮肉なのが、くだんのブログによれば(正確にいうと、それが依拠している仲田誠の論文、さらには仲田が引いた『日本震災史』の定義と見るべきだろう)、天譴とは「奈良・平安時代にすでにみられる儒教思想に基づいた「為政者に対する天の譴責」というもの」(太字は引用者)だったということ。『日本国語辞典』では「天のとがめ。天帝が、ふとどきな者にくだすとがめ。天罰。」とのみ出ているが、ともかく、くだんのブログどおりだとすれば、原義どおりにとれば震災は「為政者」すなわち石原慎太郎自身に下ったものだということになってもおかしくない。そのわりに害を受けていないどころか、いけしゃあしゃあと都知事に立候補するなどと言っているし。だから、天譴として石原を落選させる、これがぼくたちにとってベストな選択。

副知事・猪瀬直樹のツイッターによれば、石原慎太郎は「天罰」発言を撤回、謝罪したとのこと。でもぼくは忘れない。ぼくたちは忘れない。忘れられるわけがないじゃないか。

2011年3月14日月曜日

計画停電1日目

今日は、最前の予告どおり、研究室を片付けに行った。案の定、遅い朝にしては道が混んでいた。晴れていることだし暖かいし、いっそのこと自転車にすればよかったと思った。

これを機に研究室をきれいに整理しなければと思った。本を拾い、辞書を片付け、書類を破棄したりしていた。ぼくが今日、ここに来ているということをあらかじめ知っていた、卒業の決まったゼミ生のうち、大学の近くに住んでいる3人がやって来て、ピクニックに行こうと誘ってきた。

ピクニックとはなんぞや、ときょとんとしていると、道ひとつ隔てた大学の東隣にある武蔵野の森公園に導かれた。芝生の上にシートを敷いて、3人が銘々に作ってきた弁当を広げた。なるほど、ピクニックだ。公園内では子供たちが、その母親たちが、こんな日で仕事に行くのを諦めたのかもしれない父親たちが遊んでいた。

のどかだ。3日前の大惨事が嘘のようだ。

こんなことを書くと不謹慎だとなじる者がいるだろうか? そんなはずはない。結局、停電はなかったけれども、彼女たちは彼女たちなりに節電に協力し、停電の無聊を慰め、少しでも日常を充実したものにしようと、それも安上がりに楽しもうとしているのだ。

不謹慎とは、わが東京都の首長のことを言うのだ。石原慎太郎のことを。

既に Asahi.com の記事になっているが、ぼくが見たのは「朝日新聞官邸クラブ」のアカウントのツイッター上での、「副長官番A)」によるツイート。こんな内容だった。

節電の要請に訪れた蓮舫・節電啓発担当相と会談した石原都知事。会談後に「震災への日本国民の対応をどう評価するか」と質問したところ、石原さんは「日本人のアイデンティティーは我欲。この津波をうまく利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」と述べました

やれやれ、とんでもない耄碌じいさんだ。純然たる自然の摂理、天災(でなければその規模を見込めなかった知性と行政の力不足。でもこれは仕方がない。「人災」とはよぶまい)を「天罰」などというのだから。

なんでも「天」や「神」を呼び出して人間のモラルの問題に帰すのは、よほどの信心深い宗教家か、迷信深い老人だ。どちらも東京都知事なんて職業に置いておくべきタイプではない。あるいはこの人のような傲慢な人間がこんなことを言うと、この人自身が「天」にでも昇りたがっているのかといぶかられる。こんな傲慢な物言いで、この人はいったい誰を非難しようとしているのか? そんな非難すべき者たちを、少なくとも東京都の衆愚を、いったいこのお方はどこに導こうとしているのか? 

いずれにしろ、東京都知事がこんな人間であることをぼくたち都民は恥じなければならない。一度は出馬を見合わせたこの馬鹿者にもう一度出馬しろと要請した馬鹿息子を蔑まなければならない。その馬鹿息子を幹事長に据えた政党に見切りをつけなければならない。そしてこの人たちを、この人たちの施す政策をこそ人災と呼ぶべきだろう。

天災は避けられない。ただ万全を期して乗り切るだけだ。人災は避けられる。相手にせず、遠ざけ、間違って選挙なんかに出てきたら投票しないこと。それだけで簡単に避けられる。



今日、東京外国語大学は後期日程二次試験を取りやめることを発表した。これを機に大学入試のあり方を根本から見直すというのはどんなものだろうか?

2011年3月13日日曜日

ある感覚

さきほどの書き込みで、昨日の記事を自分で読み返してあることに「気づいた」と書いた。その「気づいた」ことを、もうひとつ。ぼくは昨日、「いよいよ死を覚悟した。パニック障害を患ったころの恐怖がよみがえった」と書いた。それが「死を覚悟」とまで言えるほどのことなのかどうかはわからない。でも、パニック障害を患ったころ……というか患い始めたころのある種の感覚がよみがえったことは間違いない。そしてまたつらつらと思い返すに、「パニック障害を患ったころ」のみならず、それ以前からある種の強い、非常に強い恐怖を感じたときにはそうなるから、ぼくはそれを「死を覚悟」したと表現したのだ。

頭を強く殴られたような感覚だ。そしてそのショックで視神経のあたりが充血したように感じる。同時に多くのものが見えるように思うことがある。昨日、粉塵が見えた、と書いたのはそういうこと。そしてまた、短時間にとてつもなく多くの思念が胸に渦巻くような感覚がある。思念というのは、とりわけ、生への固執と言ってもいい。あれをしていなかった。あの仕事を終えていなかった。あいつが生き残って俺が死ぬのは悔しくてならない、……等々と言語化できそうな思念が、一気にわき起こってくる。

人はみな、こうした感覚を持つのだろうか? 少なくともぼくはそんな感覚を抱くし、11日の晩、歩いて家まで帰ったのは、この感覚に突き動かされてもいたからだと思う。

これより少し和らげられた感覚(たとえば視神経の拡張はない)、でもショックには違いない感覚は、たとえば、地震のとき以来、何度もTVで流されている津波の様子や、津波の後の荒廃した町の情景を見るときに感じる。

ぼくはそれをどこかで見た記憶があると思っていた。さっき気づいた。『ヒア アフター』だ。クリント・イーストウッドの映画だ。あそこでは冒頭、旅先で津波に遭遇する主人公が描かれる。奇跡的に一命を取り留めた彼女が瓦礫の山となった町の中で旅に同行していた恋人にやっと巡り会うというシーンがある。

去年のチリの地震後の津波は水位がそんなに高くはならなかった。それを映像で見た記憶があったので、イーストウッドの描いた津波は、実は、いささか劇的に過ぎるのじゃないか、大げさじゃないかと思っていた。でも、今、こうして大規模な津波の様を見せつけられると、その後の荒廃した瓦礫の町を見せつけられると、『ヒア アフター』のシーンがにわかにリアリティを帯びてくる。

現実の問題の前にフィクションを据えるのはいささか不謹慎だとなじられそうだ。でもぼくはイーストウッドの映画を観てしまった。そのちょっと後にそれによく似た現実の光景を見てしまった。そしていずれの場合も、「死を覚悟」した時に近い強い感情を覚えた。イーストウッドの映像と、現実の映像が、繰り返しぼくの目の前に現れてくるようになった。

「死の覚悟」というほどではない。これらを見ても頭が殴られたようになって多くが見える気がするわけではない。でも、何かが胸の中で渦巻く感覚がある。これらの感覚をこんなに頻繁に感じているのは、いずれにしろ、とても危険なことだと思う。危険、というのは、ぼくの健康状態にとって、ということ。

……明日は大学に行って研究室を片付けてこよう。通常の生活に戻るのだ。

わが家の堅牢なるを知る

訳あって大学に行った。入試の準備が整ったまま(12日に予定されていた後期日程入試は16日に延期になった)、エレベータが停止したままの大学に。回廊式になった研究講義棟7階の内側に張り出したベランダには棚の中に置いてあった書類や鉢が散乱していた。

研究室に入ったら、もっとひどかった。平積みにした書類や本、安定の悪かった本、棚をはみ出していたファルケースや大きい辞書が机や床に散乱していた。

最悪だったのは、このところ使わなくなっていたプリンタ、コピーなどの複合機を棚の上に載せていたのだが、それが後ろの戸棚の上に落下していた。割れ物がなくて幸い。そして、その隣にあった愛しの『ラテンアメリカ主義のレトリック』の在庫もひと包み、10冊、まるごと落ちていた。


以前みんなで飲んだときに飲み残してそのまま放置していたワインのボトルが落ちなくてまだ救われた。

今はこの研究室を片付ける気力もない。ぼくはきっと、ある種、生命力を失っているのだと思う。

昨日、自分が書いた文章を見て、気づいたのだ。時刻からいって、ぼくはあの地震をシネマート(ビルの6階だ)に向かうエレベータの中で迎えたとしてもおかしくはなかったのだな。事実、数分の差だったし。そうなっていたら、閉じ込められたかもしれないのだな。閉所恐怖症の気味のあるぼくが。……そう考えて、なんだか力が萎えている。やれやれ。それとも歩いての帰宅で気力を使いすぎたのか? 

でも、ともかく、この研究室の惨状をみて、ぼくは反語的にわが家のアパートの堅牢さ、耐震構造の確かさを知ったのだった。だって、5冊ばかりの本が落ちていただけなのだから! 届いたばかりのブックタワーだって微動だにしていなかったのだから! 

2011年3月12日土曜日

歩いた!

シネマート新宿でロドリゴ・ガルシア『愛する人』を観ようと、ロビーにいた。映画は15:10から。10分前に入場が許される。前の回の映画がまだ終わらないころだ。報道によれば14:46とのことだが、ロビーの時計は14:50くらいだったように思う。時間差があったのか進んでいただけなのか? 地震が起きた。最初、ゆっくりとした横揺れだったが、それだけで少し不気味なものだった。やがて客席入口のドアが揺れでバタンバタンと空いたり閉まったりし始めた。ベンチの反対側の端で座っていた春休み中の大学生らしい女の子が、顔を手で覆って静かに泣いていた。

まさにロドリゴ・ガルシアの映画の人物のような泣き方だな、と、その実とても怖がっていながら、一方でそんな悠長なことを考えられたのは、孤独でなく集団で被災することのせめてもの救いなのだろう。天井にひびが入ろうとしているのか、それとも照明器具と擦れ合っているだけなのか、そのあたりに粉塵が舞っているのが見え、いよいよ死を覚悟した。パニック障害を患ったころの恐怖がよみがえった。

ほどなく揺れが一段落したので、従業員に促されて階段から避難することに。死角になって見えなかったチケット売り場のあたりには物が散乱していた。外に出てみると、はす向かいの伊勢丹ではショーウィンドウ内のパネルが落ちている。ウィンドウが割れなかったのはせめてもの幸いだ。一方、その隣のビルの2階のカフェでは、客たちが何ごともなかったかのように優雅にお茶など楽しんでいる。でも、さらにその隣のビルのシースルー・エレベータは止まったまま動かない。立っているだけで何度か地面が揺れているのがわかった。

払い戻しを受け、駅に行ったら(途中のマツモトキヨシやサンドラッグは何ごともなかったらしいのに、近くのビルでは照明がエスカレータの上に落ちていた)、改札口の中には入れないと言われた。余震が続いてるので外に出ろと言われた。事実、揺れていた。客たちが急ぎ足で階段を上っていた。駅前に出てみると、目の前のアルタの大画面ではNHKのニュースが流されていて、東北の津波の惨状がライブで報じられていた。しばらくして雨粒が落ちてきたので、駅ビルの中に入った。そこで1時間ばかりもじっと待機していたら、体の芯から冷えてきた。仕方ない。タクシーを拾うか。

しかし、東口にはタクシーはいっこうにやってこなかった。タクシー乗り場のあたりは非常線が張られていた。外壁が倒壊でもしたのだろう。西口に回ったが、タクシー乗り場は長蛇の列。タクシーなど一台も見えない。

歩き始めた。ワシントンホテルでトイレに入って、ついでにここでタクシーを、と思ったら、やはり長蛇の列。仕方なしに歩き続けた。初台の駅で京王線が動いてはいまいかとのぞいてみたら、当然、動いていない。近くには友人も住んでいるのだが、電話は繋がらない。仕方がないから、山手通りを北上することにした。後で聞いたところ、初台駅の上にある新国立劇場ではオペラ劇場を避難所として開放したというのに、ぼくは選択を間違えた。

で、山手通りを北上、ぼくと同様歩いている人がかなりの数いた。中野坂上駅に着いたので、駅の上の本屋に入ってみると、ラジオが流れていて、被害状況、交通の状況を流していた。JRは止まっているとのこと。本当はこのまま山手通りを北上して東中野に着くころには動き始めていないかな、との淡い期待があったのだが、もうしばらく歩くことにした。

その前に、中野坂上の駅で丸ノ内線・大江戸線はどうかと思って下りたら、やはり動いていない。構内でドーナツを売っていたので、ひとつ買った。「お気をつけてお帰りください」と言われた。

青梅街道に入って歩いた。いっしょに歩く人がますます増えた。歩道はいっぱいだった。多くの人が青梅街道をそのまま歩いていたが、ぼくは途中で折れて、中野の駅に。中野駅のシャッターが下りていた。そうそう。鉄道ってすぐにこうしてシャッターを下ろす、非情な交通機関なのよね、と思った。思い出した。2002年4月、カラカスでの一時的なクーデタ直後、何度か小さな市民暴動が起きていたころ、こうして地下鉄からシャッターで閉め出され、ぼくは市の東側から西側まで歩いて帰ったのだった。そのことの記憶がよみがえり、タクシー乗り場も案の定長蛇の列だったので、ぼくは高円寺に向けて歩き始めた。

本当は、途中でホテルでもみつけて入ろうかと思っていたのだが、少なくとも見つけたホテルはどれも満室だった。仕方がないから歩き続けた。高円寺では一旦、タクシーの列に並んでみたが(ここでやっとJRが終日運転をやめると宣言したことを知ったので)、5分待っても10分待っても一台もタクシーは来ず、また冷えてきたので列を離れて歩き始めた。タクシー乗り場の隣の街灯は3つあったはずの照明がひとつ落ちていた。あるいは照明でなく、プレートかもしれない。ともかく、ぶら下がる物のない腕が1本、所在なさげに虚空に延びていた。

JR中央線は高円寺から吉祥寺まで(荻窪の前後を除いて)、ほとんど高架になったレールの下を歩いて辿ることができる。ぼくはそのように歩いた……ぼくたちはそのように歩いた。というのも、相変わらず大勢の人々が歩いていたのだ。阿佐ヶ谷では怪しげな風俗店らしいものが入っている古いビルの外壁がごく一部、崩れ落ちていた。阿佐ヶ谷と荻窪の間で、JRの点検員らしい人たち2人組が架線の状況を目視で確認しながら歩いていた。荻窪近くでは、近所の住民がぼくの前を歩く人に、人々のこの列はどうしたことかと訊ねていた。それほど人の列は途切れることはなかった。

だんだん股関節が痛くなってくる。歩く姿勢が悪いのだろうなと思う。でも人の列は途切れることはなく、こうなったら意地でも、とばかりにぼくも歩いていた。みんなけっこう陽気に歩いていたので、なんだか脱落するのもくやしかったのだ。西荻窪駅手前の高架下飲食店街ではいくつかの店が開いていたので、うなぎを食べた。もくもくと仕事をしていた店主は、金を払って出ようとするぼくに、「今日は帰りは大丈夫そうですか?」と訊ねてきた。さあ、どうですかね……

吉祥寺でもタクシー待ちの長蛇の列。二人連れの男女のうち、男が女に言う。「ここまで来れば家の庭みたいなものだ」。

まったくだ。ぼくはここから先、線路を辿るというよりは、勝手知ったる側道を縫って歩くことになる。気づいたのだ。人は駅前までタクシーに乗るわけではない。住宅街まで乗るのだ。であれば、住宅街の中を歩く方が、人が下りたばかりのタクシーをつかまえやすい。

我ながらいい考えだ。で、ともかく歩いた。不思議と列はいつまで経っても途切れることはない。股関節の痛みはいつしか内ももとふくらはぎ、すねの筋肉痛に変わっていた。けっこう疲れてきた。速度もだいぶ落ちてきた。

ある交差点を渡りしな、奇跡的に「空車」の文字を見つけたのは、吉祥寺過ぎてさらに1時間以上経っていたころだった。もう深夜近くなっていたと思う。「運転手さん、おれ、新宿からここまで歩いてきたんだよ」「ええっ! ご冗談を」……という会話を交わしたい衝動を感じたが、やめた。そんなタイプではない。運転手も余計なことは言わず、黙ってハンドルを握っていた。ほっとした。ふだんならそこから我が家までは車で10分くらいの距離なのだが、道が混んでいて、30分ばかりタクシーに乗って帰った。タクシーに乗ってる間も、それを捕まえようと手を挙げては中にぼくを見出し失望する人を何人かやり過ごした。

新宿から我が家まで、直線距離にすれば20Kmくらいなものだ。でも歩いてきた道のりはもっとある。府中市内の甲州街道には東京オリンピックの競歩の折り返し点のプレートがある。代々木の国立競技場から25Kmということだ。我が家はそこからさらに10Kmくらいの道のりであるはずだ。たどって来たルートも違うことだし、30-40Kmというところだろうか。

新宿の駅前で、集った人々をカメラに収める人がいた。ぼくは途中、崩れた外壁や、歩く人の帯、そして思わぬ発見となったすてきなバーや雑貨屋などをみながら、そしていつものように夜間撮影に強いキャノンのS90をバッグに忍ばせていたというのに、写真の1枚も撮らずじまいだった。つくづくとジャーナリストにはなれないな。なるつもりはないけど。

2011年3月10日木曜日

届いた!

ツイッター上で書評家の豊崎由美さんが使っているということを紹介していたブックタワー。見てすぐ気に入って注文したものが届いた。

思ったより背が高い。ロータイプでも良かったかな? 






こうして本を横に並べて、とりあえず稼働中の本を整理する。なかなかいい。2つ頼んで、うちひとつは手違いから遅れて到着する模様。2つめは研究室に置くつもり。

2011年3月9日水曜日

小説の問題か、言語の問題か? 接続詞の問題か?

あるとこで、マリオ・バルガス=リョサについて話せと言われた。20分くらいのものだ。ある思いがあって、彼の『若い小説家に宛てた手紙』木村榮一訳(新潮社、2000)にネタを求めてみた(ところで、この本、こんなに前に出版されたんだっけ? 今見返してびっくり)。

ネタにはなるまいが、ちょっと気になることがあった。バルガス=リョサのこの本は、著者がある若い小説家に質問を受け、それに答える手紙を書く、という体裁で綴られた小説論。小説家たるための心構えのようなものも説いている。今、気になったのは小説論を展開しながら「時間」を扱った章のことだ。

まず、前提としてバルガス=リョサは、時間には外的時間と内的時間(意識の中の時間)があり、小説とは語り手の内的時間を展開するものだと述べる。そうした上で、語り手の内的時間は語られた時間と複雑な関係を持つとして、その関係のあり方を次の3つに分類する。

(a) 語り手の時間と語られた内容の時間が重なり合い、ひとつになることがあります。この場合、語り手は文法的時制の現在形で語ります。
(b) 語り手は過去の時点から、現在もしくは未来において起こる出来事を語ることがあります。そして最後に、
(c) 語り手は現在、もしくは未来に身を置くことがあります。そして、(直接的あるいは間接的な)過去において起こった出来事を語るのです。(72ページ)

おそらく、この最後の(c)のパターンが一番一般的な小説の時制のあり方だと思うのだが、バルガス=リョサは、これの例として世界で一番短い短編と呼ばれる、アウグスト・モンテローソの「恐竜」を引用する。

「彼が目を覚ましたとき、恐竜はまだあそこにいた。」
Cuando despertó, el dinosaurio todavía estaba allí. (73)
(余談ながら、allí を機械的に「あそこ」と訳すのは木村榮一の癖だ)
で、目覚めるの意の動詞despertarが過去形(不定過去。ぼくたちの言い方で言う点過去)であるところが「間接的な過去」ということだと説明する。直接的な過去とは、これを現在完了形(本書では完了過去)に変えた文章なのだと。

Cuando ha despertado, el dinosaurio todavía está ahí. (74)

複文の二番目の動詞が不完了過去estaba(ぼくらの言う線過去)から現在形estáに変わっている。それが「直接的」の意味。そしてまたallíがahí (そこ)に変わってもいる。これも「直接的」ということなのだろうか?

さて、ここでバルガス=リョサは、今度は上の(a)の場合の例文を作ってみせる。いずれの動詞も現在形に活用させる場合だ。

Despierta y el dinosaurio todavía está ahí.(75)

作家はこの文章をあくまでも時制の問題として語るのだが、ぼくには別のことがとても気にかかる。接続詞cuando(……のとき)がなくなり、代わりに、ひとつめの動詞の直後に順接の接続詞y(と)が採用されていることだ。それに伴って、カンマ( , )が消えている。「彼は目を覚ます。するとそこにまだ恐竜がいる」。このcuandoからyへの接続詞の転換。時制の変化のみならず、ここにも「間接/直接」や「外的/内的」、「遠さ/近さ」の意味合いの差が潜んでいるように思うのだが、……だがそのことを説明する言葉を、今、ぼくは持たない。

2011年3月7日月曜日

魔術と拷問、麻薬と前兆

ぼくはパウロ・コエーリョというと、2冊ばかり訳者の方にいただいたので申し訳ていどに目を通したものがあり、かつて学生がレポートで取り上げたので確認のためにちょっと目をくれたというのが1冊、それに堀江慶が映画化した作品としての『ベロニカは死ぬことにした』(真木よう子が主演したやつだ)をCSで見たというほどのもので、あまりよくは知らない。が、今回、ご恵贈いただいたので、読んでみた。

フアン・アリアス『パウロ・コエーリョ 巡礼者の告白』八重樫克彦、八重樫由貴子訳(新評論、2011)

スペインのジャーナリストが何日も作家の家を訪れて行ったインタビューを、「前兆」「精神病院、監獄と拷問」、「私生活」、等々の11章に分けてまとめたもの。すでに章の名前に見られるように、コエーリョが精神病院で過ごしたことがあり(3度)、軍政期に当局から監禁され拷問を受けた経験があり(やはり3回。2度あることは3度あるというのが、コエーリョの得た確信だ)、麻薬におぼれ、両親によって強制された無神論からカトリックに帰依し、サンティアーゴ巡礼の経験があり、魔術を行い、……といった体験をしていると言ったら、スキャンダラスだろうか? 彼の小説などにそれらが反映されているのだと納得するだけだろうか? なるほど、ヒッピーがオールタナティヴな社会やスピリチュアルな世界に向かう、その既定路線を辿った人物であるのだな、と理解されるのだろうか? コエーリョは時にニューエイジ的だとも評されるらしいのだが、確かに、世代として経験として、ニューエイジだと思われるだろう。でも、すくなくとも拷問の件はそれとは別個にショッキングであるだろうと思う。

ショッキングであると同時に、これだけの遍歴は、人生として面白いことも間違いない。「作品が面白いのは作者が面白いからだ」と旦敬介は書いたのだった(『ライティング・マシーン——ウィリアム・S・バロウズ』インスクリプト、2010)。そういえば旦さんはコエーリョの翻訳者でもある(『悪魔とプリン嬢』角川書店、2002)。コエーリョの作品が読まれる所以だろう。ちなみに彼、作家として知られる以前に、作詞家としてたいそうなヒットを飛ばした人なのだそうだ。

教訓もある。「一度書き始めたら一日たりとも中断しないこと。中断すると続けられなくなるからね。時には中断しないために、旅行中、機内やホテルで書き続けることもある」(149ページ)。もちろん、これは小説を書く際のコエーリョの方針のことを語っているのだが、ことは小説に限らない。書き始めたら中断しないこと。どんなジャンルであれ、書いて表現するひとにとってはひとつの教訓だ。

ところで、これをいただいた報告をしたとき、ぼくは八重樫夫妻が家族総動員でやっているのじゃないかと冗談を書いた。近年の多産さに驚いてのことだ。しかしこの本、あとがきを読んでみると、もうずっと前に訳したものを7年がかりで出版に漕ぎ着けたのだとか。

……うむ。これも教訓だな。とにかく訳し、訳したら出してくれる出版社を諦めずに探すこと。

ぼくもベニート・ペレス=ガルドスの短めの長編の翻訳をある出版社に送ったっきりだ、などと嘆いていないで、出してくれる出版社を探す努力をした方がいいのだろうな。訳注まで網羅した完成稿、どこか出してくれないかな? あるいは、翻訳ではないけど、コルターサル『石蹴り遊び』論。

2011年3月6日日曜日

熱気に当てられる

昨日は日本オペラ振興会主催、藤原歌劇団公演、ドニゼッティ作曲『ルチア』(『ランメルモールのルチア』)を、東京文化会館で。

ダブルキャストで、昨日はルチアを佐藤美枝子が、エドガルドを村上敏明が演じる布陣だった。演奏は東京フィル。指揮は園田 隆一郎、演出は岩田達宗。

近頃評判のこの演出家、大学時代の先輩にあたる。フランス語学科の出身だが、縁あって面識のある方。同期の友人に誘われて観に行った次第(会場で岩田さんの同期のフランス語科の、その後大学院に進んだのでそこで面識を得た人物に会った。久しぶりに。とある大学でフランス語を教えている方だ)。ぼくらと同世代ということは、小劇場の全盛期に演劇的教養を身につけたということだ。その後第三舞台で研鑽を積み、今ではオペラの演出をやっている。さすがにそういう経歴だけあって、舞台はシンプルな坂道状の装置といくつかの幕というかパネルというか、そうしたものだけという造り。こういう造りだと、古典的に作り込んだ舞台装置よりも演技する者がキビキビしていなければならない箇所が出てくるように思う。それが引き出せて良かったのじゃなかろうか。

スコットの『ラマムアの花嫁』が原案というこのオペラは、スコットランドの危機の時代を背景に、敵対する家族のメンバーであるルチアとエドガルドが恋に落ちるが、兄やその仲間の画策によって引き裂かれ、ルチアは代わりに夫になったアルトゥーロを殺して自らも果て、それを聞いたエドガルドも自身の命を絶つというストーリー。

ルチアの狂乱が最大の聞かせどころであるこのオペラ。佐藤美枝子はピッコロ(だと思う)の音と張り合いながら熱演していた。オペラなんて話を知らないと聞いていて苦痛なので、事前に予習し、アンナ・モッフォの歌った盤を聴いたのだけど、やはりこの種のシーンはCDで聴いているだけよりも、演技が伴うと具体化されて胸に迫る。

脇を固める合唱の人たちの衣装(軍服外套)と配列がルチアを追い詰めていく感じをよく表現していたように思う。

夜は新宿の老舗タブラオ、エル・フラメンコにてペドロ・コルドバ他の熱演を堪能。来店していたクリスティーナ・オヨスに紹介していただいた。昼間オペラを聴きに行った。ドニゼッティの『ルチア』だ、と言ったら「『ランメルモールの——』?」と返ってきた。うむ。さすがに教養豊かな方だ。ぼくは実はこの作品、誘われるまで知らなかったのだけどな。

オペラといいフラメンコといい、熱に当てられるイベントだ。おかげで(?)今朝は10時まで気を失っていた。つまり朝寝した。

2011年3月4日金曜日

これも昨日の話

今日は夜の7時過ぎまで会議だった。

さて、昨日は国立新美術館に『シュルレアリスム展——パリ、ポンピドゥセンター所蔵作品による——』を見に行ったのだった。

ダダの時代から始まって、ふたつの「宣言」で頂点を迎え、やがて分派、離脱、破門の時代があって、亡命、帰還、と順に時代を設定し、最後はラムやポロックなどまでを展示。最後の最後にマッタの超巨大な『ロゴスの透過——仮象』がぼくたちを送り出す構成。

マッソンがたくさんあったが、マッソンはマッソンだ。あくまでもマグリットのすばらしさがぼくには印象深い。『旅の想い出』と『秘密の分身』、それになんといっても彫刻『ダヴィッドのレカミエ夫人』だ(カウチの上で棺桶が身をもたげたもの)。そしてぼくにとっての発見はヴィクトル・ブローネル。この画家をぼくは知らなかったのだが、今回、結構な数の印象的な絵が展示されている。

シュルレアリスムというと優雅な屍体(展示会では「甘美な死骸」)の集団的言葉遊びと自動記述による理性の枷への挑戦だと思うのだが、いずれも詩の試みかと思われるこの2つの試みにはデッサンにおけるそれもあった。それらがいくつか展示されていた。

そして、センターのフィルムライブラリからの出品となった映像作品も嬉しい。ブニュエルの『アンダルシアの犬』と『黄金時代』はともかくとして、マン・レイの『ヒトデ』(あのモンパルナスのキキの物憂い表情で有名なやつだ)とルネ・クレールの『眠るパリ』がかかっていた。後者は特に、実に面白かった。そしてファブリス・マズが2003年に撮ったドキュメンタリ『野生状態の眼——アンドレ・ブルトンの書斎』も興味をそそられた。

ちなみに、掲載したのは会場で取ったメモ。ジャコメッティ『テーブル』の4本の脚のうちの1つのくねくねとしたところがシュルレアリスム的だな、という発見を記したメモ。

2011年3月3日木曜日

ひな祭りの日に肥った男の子の話

国立新美術館で「シュルレアリスム展」を見たのだが、その印象はまた別個。そこに行く途中に読み終わったので、時間順からいって、こっちを先に。

ジュノ・ディアス『オスカー・ワオの短く凄まじい人生』都甲幸治、久保尚美訳(新潮クレストブックス、2011)。

オビに謳っている「マジックリアリズムとオタク文化が激突する、新世紀アメリカの青春小説」。背表紙で高橋源一郎が書いている。「ラテンアメリカに生まれたマジックリアリズムは、ニッポンのサブカルチャーと出会って更新される」。あとがきで都甲幸治が言う。「中南米マジックリアリズムのポップ・バージョンみたいだ」……しかし、もっと先ではこう言う。「中南米マジックリアリズム全体に喧嘩を売っているとしか思えないディアスの態度」……

ぼくは話すと長くなる理由から(アメリカ合衆国のアカデミズムが定着させたこけおどしの用語だ)、「マジックリアリズム」なんて語、死んでも使うものかと思っている。なので、使わない。

この小説はタイトルに要約されるようにオスカー・ワオの「短く凄まじい」人生を綴ったもの。ドミニカ移民の息子オスカーが、母親の故郷であるドミニカ共和国でついには恋人と結ばれようかというときに死ぬ話。タイトルにも明らかだし、オスカーが死ぬことはもうだいぶ最初の方でほのめかされるのだが、2度ほどその死の予感は肩すかしを食らい、物語がこうして引き延ばされる。

引き延ばされた物語の中で語られるのは、オスカーの母親ベリの若いころと、彼女の出生の秘密(かもしれないもの)、そしてその秘密(が正しいとすれば)が伝える父親アベラードとその家族の悲運。この悲運がドミニカ共和国を32年間の長きに渡って支配した独裁者ラファエル・レオニダス・トルヒーリョによってもたらされものであるというのがひとつの骨格。合衆国とドミニカ共和国が、現代と近過去の歴史が結びつけられる。この結びつきを説明する原理が、「フク」というカリブ海に巣くう一種のデーモン。トルヒーリョ(小説内ではトルヒーヨとの表記)がとんでもない人格なのも、オスカーの属するカブラル家の人々が不運なのも、あれもこれもこのフクに取り憑かれた結果のこととされる。この因果関係を冒頭で語っているのが、コミックに登場する超種族「ウォッチャー」であり、この語り手によって語られるオスカーの生活が、典型的な肥ったダサイ少年で、SFオタク、『猿の惑星』や『指輪物語』、『キャプテンハーロック』、『復活の日』(!)なんかに没頭する日々なのだから、「マジックリアリズムとオタク文化の衝突」などと紹介されているという次第。

しかし、この語り手「ウォッチャー」はいつしかオスカーの姉ロラの元恋人にしてオスカー自身の親友ユニオルに変わる(もしくはいくつかの転換の末に、そうであることが発覚する)し、SFオタクのオスカーは常に自分でもSF作家になろうとしているし、ユニオルは最後には自分自身がものを書く生活をしているしで、小説のそうしたもうひとつの骨格は実に古典的といえばあまりにも古典的な青春小説。そして古典的な青春小説は強い。面白い。ぼくなども千代田線の電車の中で思わず泣きそうになったものな。

一般的に言って小説の価値を保証するのは、そこに込められる情報量だ。筋は大した問題ではない。オスカーがSFオタクということになれば、それに関連する情報が詰まっていなければならない。オスカーが60年代生まれのドミニカ移民となれば、ドミニカとの関係性、親が影響を受けただろうトルヒーリョ時代のこと、そしてスペイン語混じりの英語などがふんだんに詰め込まれていなければならない。語り手が今や作家であるとなれば、サブカルチャーのみではない、「ハイカルチャー」としての文学への言及もなければならない。読者は全員が全員、これら3つの次元における情報に通じてはいないし、わからないものもあるだろうが、小説の読者とは、そうしたよくわからない情報をきっとあれのことだろうな、と予想しながら読むことに楽しみを覚える人種だ。オスカーが子供時代から親しむコミックやSF小説、映画、アニメなどの博覧強記の言及には圧倒される。それにいちいち訳注をつけている翻訳者たちの作業にも敬意を覚える。

同様に、英語圏の読者といえども、そこに挟まれる説明なしのスペイン語の単語や表現にはめまいを覚えたはずだ。必ずしもわかるとは限らない語や表現だろう。これもまた日本語に訳され(ただしルビが振られ)ている。「日本語版は世界初の『読んでわかるオスカー・ワオ』になったと自負している」と都甲幸治が書いたのは、訳注のみならずスペイン語も訳すという作業の賜物のことを言っている。

2011年3月1日火曜日

読書って大変

届いた。FlipKlip ブックホルダー。

机にはブックスタンドがあるにはある。が、机以外の場所で、出先で、本を開いたまま押さえておきたいとき、よく往生していたものだ。

ツイッター上で誰かが先日直木賞を獲った道尾秀介の「これから読書」というような写真つきツイートをリツイート(再生産)していた。それを見て、何だろうと思ったのだ。本の上辺を何かはさみのようなもので押さえている。あれ、便利そうだな。

で、気になって、いろいろなタイプのホルダーやクリップを探していたら、行き着いたという次第。これだ。たぶん道尾が使っていたのもこれだ。簡易ブックスタンドにもなるし、ホルダーにもなる。持ち歩く際にはこれで本を挟んでいけばいい。実に便利。

むふふ……などと日々を過ごしていた。肝心なのは、これを使ってする読書の中身なのだけどな。読書はなかなか進まないな。朝は自分の書くもの(それに必要な読書も含まれるのだが)、昼間は野外での活動、夜に読書と翻訳、なんて思っていると、ますますだ。

人は夜になると徐々に体温が下がっていき、寝に入る準備をする。それと同様に、ぼくは夜になるとめまいがして、耳鳴りがして少しずつ気を失う準備をする。ここ一月ほどはそんな感じで、これはつまり抗鬱剤を飲んでいたころの体調に戻ったということなのだが、そんなわけでなかなか読書が進まなくなった。読書って、ただ座ったり寝転がったりしてできるとても受動的な行動のように思われがちかもしれないけれども、実に体力を要する作業なのだね。