2009年4月29日水曜日

問題

テル=アヴィヴの地図が欲しいと思った。そんなに遠くないところの本屋に行ってみたが売っていなかった。もうひとつふたつ回ってみた。あるところで、やはりそんなものはないことを確認して、ふと後ろをみたら、見つけたのが、クリスティアン・ビエ、クリスフ・トリオ―『演劇学の教科書』佐伯隆幸監修(国書刊行会、2009)。ひと月ほど早く見つけたかった。

さて、問題です。ぼくはどこのなんという本屋にいたのでしょう?

数日前からどうも皮膚表面が痛いと思った。外傷らしきものがないのに、表面が痛い。不思議な痛みだが、なんだか懐かしい痛みでもある。これは何の痛みか?

神経痛だ。参っているのだ。

2009年4月27日月曜日

人生を語る映画を語る困難

ちょっと前に書いたような課題で卒論の学生がそれについて書いてきたことだし、法政のゼミにも関係してくるので、久しぶりにグレゴリー・ナバ『セレナ』ジェニファー・ロペス、エドワード・ジェイムス・オルモス他(1997)なんてのを見てみた。DVDはワーナーから。

テキサスのメキシコ系住民の生み出したクレオール的音楽テハーノのスターになりながら、ファンクラブ会長に銃殺されたセレーナ・キンタニーリャの話。コッポラの製作総指揮という売り込みでその2年前に公開された『ミ・ファミリア』に続いてナバがJ.Loを今度は主役に据え、『ズート・スーツ』のオルモスを父親役に配して撮ったフィルム。

こうした実在の人物の伝記物をどう論じるかは難しいところ。映画として楽しめればそれでいいとは思うのだが、……情報を求めてウェブ上をさまよっていたら、なんだか典型的なだめだめ評に出くわしてしまい、こうした伝記物をどう論じるかは本当に本当に難しいのだなとの思いを新たにして昨夜は明けた。

下手なドラマティズムに頼って銃殺のシーンを事細かに描写していないところなどは良い点。決定的瞬間を知り得ないところが現実のもどかしさなのだ。

2009年4月26日日曜日

悲愴なる運命

昨日、25日(土)は雨の降りしきる中、東京外国語大学管弦楽団第77回定期演奏会というものを聴きに杉並公会堂(荻窪)まで行ってきた。

朝、その曲をかけたのだった。学生から定演のチケットをいただき、演目のCDを探したらカラヤン指揮、ベルリン・フィルのものがあったので買った、それを、その日の朝、かけたのだった。その日、その定演があることなどすっかり忘れていたというのに、かけたのだった。第3楽章の盛り上がりのあたりで、ふと気になってチケットを見たら、その日が当日だと書いてあった。

運命を感じた。

運命には身をゆだねるタイプだ。だから、雨だというのに、荻窪まで出かけていったというわけ。

運命といっても、曲目は悲愴。悲愴といってもチャイコフスキーの6番、「悲愴」のことだ。「パテティカヤ」というロシア語をそのまま他のヨーロッパ語の「パテティカ」(スペイン語の場合)に訳したので、「悲愴」と伝わっているが、実はこれは誤訳で、「情熱」という程度の意味だという、あの「悲愴」。

そして同じくチャイコフスキーの幻想序曲「ロメオとジュリエット」。この曲、ぼくは意外に好きだ。さらにリムスキー=コルサコフ「ロシアの主題による序曲」。列挙したのとは逆の順に演奏。

カラヤン、ベルリン・フィルのアルバムはチャイコフスキーの2曲を挙げた順に収録したもの。名演奏の誉れ高い。聞き比べた。

1,000人ばかり入る杉並公会堂大ホールは、あの雨だというのに、ほぼ満員だった。見上げたものだ。演奏も見上げたものだった。

同僚が来ていて、その彼と食事。

2009年4月24日金曜日

鬱々と希望を抱いて

人を鬱病にしないではいられないタイプの人間がいる。そんな人物から、なんでこんな時期にこんなことでこんなところに書留郵便で送ってくるかな、という郵便物を1時限後の、金曜唯一の空き時間に受け取り、事務室を出た瞬間、しゃがみ込みたいようなめまいに襲われた。ぼくは自分を哀れんで涙を流す者は愚か者だと思っているが、愚かな涙を自分のために流したくなった。人前で。衆人環視の中で。そうしたらどれだけ楽だったことか。

話はそれるが、昨日のこと、ある学生が研究室にやってきて、泣き言を言った。ある国に留学に行くつもりで準備していたのだが、出発を翌々日に控えているというのに、1ヶ月半ほど前に申請したビザがまだ発行されていないのだとか。

やれやれ。本当にこの国の在日大使館領事部の仕事ぶりと来たら、毎度のこととはいえ、悪名高い。押しかけていって発行するまではテコでも動かないと粘ればいいのだとアドバイスした。もちろん、学生はそれで納得するはずはない。でもなあ、他にしようがないじゃないか。

で、今日、その学生は出かけていって1時間粘り、ビザを出してもらったのだそうだ。メールが届いていた。

当然だ。書類がそろっているのだから、出るものなのだ。本当は3日もあれば充分なのだ。でもでかした! タフにゴネてネゴる。それしかない。それがこんな国で生きていく唯一の方策。

1年講読、空き時間、昼休み、地域基礎、3年ゼミ、卒論ゼミ。

卒論ゼミは参加者に1パラグラフずつ(あるいはそれ以上)を提出していただいてみんなで読み、質問やアドバイスを交わすという形式を、今年、実験的に採用している。なるほど、道筋が見えてきそうだと、希望を見いだしたらしい学生の感想。

2009年4月23日木曜日

ハネがそれらしい

昨日、22日(水)には「人文学の危機と出版の未来」というシンポジウムに出てみた。東京外国語大学出版会の打ち上げシンポだ。大塚信一(岩波書店元社長)、小林浩(月曜社)、田口久美子(ジュンク堂書店)の面々。懐かしい友人の編集者が。

やはり聞きに来ていた友人と食事。

今日はなぜか留学生にアテンドするチューターという役目に応募する学生がサインを求めて、合計、5人もやってきた。昨夜からサインの練習をしているのだと冗談を言ったら、敦の字の最後のハネに練習の成果が現れているとお褒めの言葉をいただいた。

2009年4月21日火曜日

また雨

以前、法政に勤めている頃、一番遠くの非常勤先に出かけるのは水曜だった。そして水曜日は雨ばっかり降っていたという記憶がある。記憶だからあてにはならないが、少なくともそういう印象を抱く程度には雨が降った。

今年はかつての勤務先法政大学多摩キャンパスに火曜日に出かける。先週は雨だった。今週も少し雨が降っている。時々やんだりはしているが。

ぼくはつまり、雨男なのだ。

2009年4月20日月曜日

幸せの光景


そしてこれが、潰れたバーミヤンの隣で、健在なサンメリーの石窯パン工房の角にあった幸せの光景。

幸せなのはバラク・オバマがキューバとの「新しい関係の時代」を宣言したからというわけでもあるまい。

いや、つまり、FELIZと書いたプレートが……

2009年4月19日日曜日

直線はゆがむ

昨日、散歩の際にふだんありま向かわない方向へ向かったら、バーミヤン、びっくり寿司、セブンイレブンといった、企業としてはつぶれないだろうと思われる企業の店舗が、いつの間にか閉鎖されていることに気づいた。

丸井方式だ。スクラップ・アンド・ビルトでばんばん作ってばんばん潰す。ぼくの近所のこの店舗は採算が取れなかったのだろう。いろいろな大学の新学部みたいだ。新書ブームと同じ原理だ。

などということを考えながら読んだのが、

エルヴィン・パノフスキー『〈象徴形式〉としての遠近法』木田元監訳、川戸れい子、上村清雄訳(ちくま学芸文庫、2009)。

「象徴」には「シンボル」というルビがふってある。カッシーラーの用語「象徴形式」を、遠近法にもまた当てはまるものだとして、その意味を探ったもの。「個々の芸術上の時代や地域が遠近法を有するかどうかということだけではなく、それがいかなる遠近法を有するかということが、これらの時代や地域にとって本質的な重要性をもつ」(30)ということ。遠近法は人間中心の時代に芸術において中心をしめるようになった技法だということ。そしてそれぞれの時代の「人間中心」のあり方によって遠近法のあり方が異なる。

作っては壊しのわれわれの時代は消失点からこちらに向かう直線の中に常に欠損が生まれている寂しい時代なのだなと、そんなことを考えながら道を歩いていたわけだ。

ところで、この本が冒頭読者を引き込むのは、この遠近法的に配された直線を、実際には人間は彎曲した曲線として認識するという指摘がなされるから。そして、17世紀(ケプラーなど)と19世紀(ヘルムホルツ)にはそのことが問題にされたと教えられるから。

天井と壁の接線や本棚の上辺をまじまじと見つめて過ごした。

2009年4月17日金曜日

グーグー

1時限が授業だった。1年生の講読。最初の授業だ。久しぶりの1時限の授業で10時を回る頃には腹が減ってしかたがなくなった。グーグーと胃が文句を垂れていた。

しかし、すぐに食事に行くわけにはいかなかった。3時限に使う予定になっていたあるものを家に置き忘れたことに気づき、取りに帰らねばならなかった。忘れないようにしようと、朝、机の上に置いたのに……まるで小学生みたいだ。気の配り方も、それを忘れる失態も、取りに帰る行為も。およそ人生の道半ばにある人間とは思えない。

無事ブツを回収して大学に戻る途中、食事はした。しかし、腹はいつまで経ってもおさまらなかった。グーグー鳴り続けていた。最初の収縮のショックから立ち直っていないようだ。ポッキーなどでごまかしても収まらない。夕食をたらふく食べてもおさまらない。

グーグー。

2009年4月16日木曜日

報告

到着しました。『NHKラジオ まいにちスペイン語』5月号。連載「愉悦の小説案内」第2回。今回紹介するのはイサベル・アジェンデ『精霊たちの家』

ご恵贈いただいたのが、柴田勝二『中上健次と村上春樹――〈脱六〇年代〉的世界のゆくえ』(東京外国語大学出版会、2009)。1970年、「青春の終焉」の時代、68年の世代の作家として2人の小説家を論じたもの。

2時限と5限後の授業。疲れた。

2009年4月12日日曜日

開戦前夜

いや、つまり、明日から授業が始まるという意味で、それを「開戦」などとぶっそうな比喩で表現するのは元来ぼくの趣味ではないのだけど、何しろ今年は未知の領域に突入しようとしているので、戦々恐々としているという意味だ。

授業では週に通算30ページばかり(スペイン語で)読まねばならない。

そりゃあね、ただ読んで理解するだけなら1日30ページでも少ないくらいだ。でも理解することと授業で対応可能なように準備することはまったく次元の異なる話。時間がかかるのだよ。授業の準備は。

その他に週に10ページばかりは(スペイン語の)翻訳をしなければならない。140ページの原稿も夏までに書かなければならない(日本語で)。NHKの連載のために月に1冊は小説を読まなければならない(幸い、こちらはほとんどが再読)。そのほか、ここでは書けない秘密の仕事のために、果たして何百ページ読まねばならないのか……

そして3つほどの講義科目の準備と事後処理。受講生が少ないことを祈るしかないのだが、まあ確実に少なくはないと断言できる。

春物のシャツを買って、明日から大量にかくに違いない汗に備えた。

でもその前に今日中にあと4ページほど訳しておかないと、明日からがつらいんだよな。

2009年4月8日水曜日

そして……


そしてこれが東京外国語大学出版会第1弾。

今福龍太『身体としての書物』

またしても二重露光写真。ちなみに、この表紙の緑色の地とそこに乗った本の影は、ぼくの故郷の教会に由来するもの。

このほかに柴田勝二『中上健次と村上春樹』というのが第1弾として既刊。ちょっと遅れて亀山郁夫『ドストエフスキー 共苦する力』が出る予定。

「身体としての書物」と言えば、ぼくも参加するリレー講義「テクストの宇宙を行く」(2学期木曜1時限)、今年の共通テーマは「書物」。ぼくがまとめ役。今福さんの本などは大いに参考にさせていただこう。ここのボルヘス『砂の本』のエニグマティックな一節を読み取る箇所などはスリリング。

2009年4月7日火曜日

花見


こんなのが出来てきた。

東京外国語大学出版会というのが立ち上がり、その最初の本が上梓される(た?)のだが、本以外にこうしてPR用のパンフレットを作った。ここに、以前ほのめかした「ラブレターのすすめ」という文章を書いたという次第。見開きの短い文章。他に教員や図書館職員が1年生に薦める本というアンケートに答えている。ぼくも答えて3冊推薦している。

たぶん、PR用のパンフレットなので書店などにも置かれるはず。きれいな表紙なので、よかったらどうぞ。

仕事をしていると学生がやってきて、別の学生もやってきて、近くにあるのに野川公園に行ったことがないというので、急遽、花見と相成った。

2009年4月4日土曜日

怪しいカード


こんなのが郵送されてきた。 "Priority Club"だと。何も断りなしに既にカードが貼り付けてあるところが怪しい。なにより、中国風の簡体漢字で何かが書かれていることが怪しい。宛名にJAPANと書かれているのだから、日本語にすればどうかなと思う。なんだか愉快だ。

コンピュータ関係である設定に手間取ることがあり、背中が凝った。昨年度の書類などを処分し、……さて、新年度に備えるとするか。

2009年4月2日木曜日

読んでから年を終えろ


もちろんウェブサイト、『ガルシア・マルケス活用事典』のことは知っていたし(今、リンクを貼ろうとしたら、なぜかエラーメッセージが出るが、どうしたことだ……)、そこで「マルケス百話」と題されたコーナーに管理人が書き継いだ記事を中心として本を作っている話も知っていて、首を長くして待っていたのだけど、それだけに感慨深い。ついに、出来したのだ。

書肆マコンド『ガルシア・マルケスひとつ話』(エディマン/新宿書房、2009)

そりゃあね。そんな話も知ってるさ。出版社はぼくの2冊の本を出してくれた版元。奇特な方です。ブックデザインの宗利淳一さんとのコンビで、またしてもこんな美しい本に仕上がった。

中のイラストもそうだが、この本の目玉のひとつであるマコンドの絵地図を担当しているのが、イラストレーターの中内渚さん。外語のスペイン語卒、故・杉浦勉さんの教え子なのだそうだ。担当編集者の原島さんと酒を飲んでいて、ほら、できあがったんだよ、などとこのイラストを自慢げにちらりと(ちらりだ。あくまでも)見せられてから、もう1年以上になるはずだ。いや、2年か? やっと恋い焦がれたマコンド絵地図をまじまじと眺めることができた。ブエンディア家の中庭からは小町娘のレメディオスが昇天していたりして、かわいい。神々しい一幅だ。

負けず劣らず神々しいのは、もちろん、本文。そしてその本文を書くために収集し、読み込まなければならなかったはずのデータの数々。自身のサイトに「マコンド図書館」として掲載されていた文献表を編み直して、巻末に掲載している。2008年までの時点で日本語で読むことができたほぼすべての『百年の孤独』およびガルシア=マルケス関連の文献が網羅されているのだ。

在野の、などといって彼我の差を設けるのはあまり気が進まないが、他に言葉を知らないから、仕事を持ちながらこうした学究的コレクションを続ける愛好家をこう呼ぶならば、在野の愛好家・研究者が示しうるひとつの到達点だ。仮にもガルシア=マルケス研究を標榜する象牙の塔の研究者たちは、ここを超えなければならないのだよ。うーむ、手強い。そして、ガボが『族長の秋』にルベン・ダリーオを引用していると語ったインタビューを引き合いに出し、その箇所を示し、「ダリーオの詩に一丁字もない当方には、詩人の何という題名の作品であるか、皆目見当がつかない。どなたか、このニカラグアの詩聖を日本語で詳しく紹介してくれないだろうか」(259ページ)と問いかけられ、「ぼくも皆目見当がつかないなあ」などと間の抜けたことを言っている自分が恥ずかしい。

書肆マコンドさん、エディマンのブログによれば、東京堂主催の読書王というものに選ばれたのだとか。永江朗と豊崎由美に選ばれたというのだから、たいしたものだ。いや、そういう人ならではの1冊だ。

そのほかにアルトゥーロ・ペレス・レベルテ『戦場の画家』木村裕美訳(集英社文庫、2009)など。ペレス・レベルテはさすがに出るなあ。

あ、そうそう、公募、始まりました。この分野の若い研究者の皆さん、ふるってどうぞ。

2009年4月1日水曜日

改組しました

そんなわけで、大学の組織が変わった。ぼくは大学院総合国際学研究院というところの所属になる。この名称、やっと今覚えたばかり。新しいものに対する拒否反応というよりは語呂の問題か? どうも覚えにくい。

大学のサイトの研究者一覧もこんなふうに変わっていた。

従来のこんな形でも見られるけれども、こちらはまだ異動が反映されていない(4月1日午前11時現在)。

去年の11月くらいに名刺が切れた。大学院化の話は決定していたので、新しい名刺にはそれを反映させても良かったのだけど、どうしても新体制になる前に名刺を配り歩かなければならないとの見通しがあった。もう面倒なので「東京外国語大学」とだけ記した。「大学院」も「総合文化講座」もなし。

組織が変わることで何がどう変わるのか、まだわからない点も多い。が、少なくとも2点、直接にぼくにかかわる問題がわかっている。いいのか悪いのかよくわからないことが1点と、少なくとも仕事がひとつ減ったという点で嬉しいことが1点。