2018年2月3日土曜日

また駒場キャンパスに行ってきた

昨日また駒場キャンパスに行ってきた。


昨日は本郷で学部の卒業論文と修士論文の審査の後、夕方、駒場キャンパスに行ってきた。

飯田橋文学会が進める「現代作家アーカイヴ」のシリーズ、今回は松浦理英子のインタヴュー。インタヴュアーは小澤英実さん。

このシリーズは作家本人が代表作と考える作品を3作指定し、それを中心にインタヴュアーが作家の創作活動についてインタヴューするというもの。今回は『ナチュラル・ウーマン』(1987)『犬身』(2007)『最愛の子ども』(2017)の3作。

松浦理英子はほとんどメディアにも顔を出さないし、わずかに数枚の写真を見たことがあるくらいで、声を聞くのも初めてのことだったので、比較的読んでいるはずのこの作家に初めて触れる機会だと、疲労困憊の身体を引きずって行ったのだった。声、というよりも、話し方が、思弁を巡らせるある種のタイプの人を思わせて、最初、意外に感じたのだが、話を聞いているうちに、なるほど、このしゃべり方は松浦理英子その人そのものであるという気になってきた。

話は実に面白かった。彼女が3作……というよりも全作を通じて描いてきたものを単に同性愛だの人間と犬の関係だのといった次元に還元することはなく、たとえば「恋愛である必要はないし人間であるひつようもない心の触れ合い、通い合い」(『犬身』について)というような言葉で語ろうとしていることだ。そうした超越的な何かを目指す関係が、俗な言い方で言うと「支配と被支配」に映るであろう2者関係の、決してスタティックでない関係の流動から得られるのではと模索しているらしいこと。ヘーゲルの「主と奴隷の弁証法」のようなもの、といえばいささか図式的だろうか? 

『ナチュラル・ウーマン』の冒頭が経血の処理シーンであることを問われると、「月経を書きたいという野心」があったと、あるいは「志」があったと述べた時にはモチーフに対するにしては強烈な印象の語の採用にハッとさせらた。

一方で、『ナチュラル・ウーマン」の表題作のタイトルは作中に使われるアリサ・フランクリンの曲から取ったものだが、これに何か意味を読み取ろうとする小澤さんの野心をそぎ落とすかのように、松浦さんは他に思いつかなかったからとかわしてみせた。読者と作者の態度の差が鮮明になるこうした瞬間がいくつかあった。たとえば、『犬身』から『最愛の子ども』の流れでテーマが家族に移っていったと考えようとする小澤さんに対し、家族に今日的な問題があることはわかっているから書くのであって、それは目標や目的ではないときっぱり言い返し、「分かってもらっているか心配」だと呟いた時が一番の緊張の瞬間だっただろうか。

一方で、問われて各作品の登場人物たちの話をする際に「……だと思うんですね」と推測調で答え、まるで他人事のような態度であるのは、きっと松浦さんが今では自分の作品を相対化しているということだろう。もうすぐ出るという新作については、「まだ書いてすぐだから面白いかどうかわからない」と言っていたことからも、作家と作品とのその距離が推し量れる。

打ち上げで出てきたコロッケの写真。


ところで、またマフラーを忘れてきた。「また」というのは、つい最近、マフラーを大学の研究室に置き忘れて帰宅の途についたことがあったからだ