2017年8月20日日曜日

始まりはいつも気紛れ


ついでに、Twitter上に



そして、


を投稿した。

実際、気紛れで始めたものの、飽きっぽい僕の性格だから、投稿を連動させる気が一切ない。きっと違うことを書き続けるのだ。他に書くべきことがあるのに(今のところはInstagramの昨日の投稿に書いた書評を、本当に終えなければならない)。

僕の理解が間違っていなければ、Instagramは基本的に写真を投稿する場だ。次なる問題は:

だいたい常に持ち歩いているカメラの問題。いわゆるコンデジ。これを取り出すと、今どきこんなものを持ち歩くなんて珍しいと言われる。

そりゃそうだ。iPhoneのカメラなど、今では素晴らしい。画質もいい。撮ればすぐに写真(アプリ名)に収まって、そのままInstagramと連動させてシェアできる。

一方、この愛するCanon PowerShot G9X で撮った画像は、今ではWi-FiでiPhone やiPadに取り込めるけれども、少なくとも一手間余計だ。やがてその作業が億劫になったとしてもおかしくはない。コンパクトでないカメラを持ち歩く人は逆に飛躍的に増えたから、この一手間は決して嫌がられているわけではないと思う。写真がInstagramに掲載するためのものだと思えば、スマートフォンでないカメラは無用の長物で、無用の長物としてのカメラを持つなら本格的なものを、というわけなのだろう。


さて……
(いや、僕だってミラーレス一眼レフなど持っているわけだが……一方で、この二つくらい前のモデルを持ち歩いていた頃、同席したさる写真家が、やはり同型のものを持ち歩いていることを知り、なんだか誇らしく思ったものなのだよ)

2017年8月17日木曜日

悲鳴を上げる財布

これは何だ? 

昔から、身軽さへのオブセッションがある。徒手空拳という言葉への尽きせぬ憧れがある。前提その1。

かつて、マネークリップを使っていた。なかなか気に入っていた。が、いつしかカードなどを持つようになり、財布を使うのが当たり前になっていった。今ではマネークリップは使っていないものの、何となく、また使いたいなという漠然とした憧れがある。これが前提のその2。

で、こうなった。


これまで使っていた財布(これはこれで気に入っている)と比べると、こんな感じ。おそらく厚みは大差ないかもしれないが、大きさがだいぶ違う。

これでボーナスは使い果たした。後は水を飲んで生きる。(というのは、もちろん、噓だけど)


以前、iPadやら何やらを衝動的に買う僕を見てたしなめていた教え子が、先日、会ったときにこのThe Ridgeのマネークリップの話をしたら、あっさりと「買っちゃえばいいんじゃない」と言っていたので、その態度変更に戸惑いつつも、背中を押されたような気になったので、買った。

2017年8月16日水曜日

悲鳴を上げる島

Facbookで繫がっている方が他のある方の記事をシェアしていて知った、こんなニュース。


僕は高校進学と同時に家を出て、その後、ほとんど帰省もせず、今後もUターンなどさらさら考えていない。僕はきっと、さして故郷思いでもないだろう。それでもこうしたナンセンスな話には腹立ちを禁じ得ない。

記事には地図と候補地の上空からの写真がついている。一番北の候補地、「笠利湾東(奄美市)」と書いてある場所は、僕が子ども時代、たまに遊びに行った場所だ。もしくはその近くだ。

山を越え、木々の中の小径を抜け、最後にマングローブのアーチをくぐり抜けると眼前に開ける白い砂浜だ。関東の黒い砂浜と比較すると目の覚めるほどに真っ白いそのビーチは、確かに美しい。その名も白浜(するばま)という。

が、はっきり言ってそのビーチは狭すぎる。山がすぐ背後まで迫っているので、ビーチ周辺も狭すぎる。つまり、ここにリゾート施設を作るのはナンセンスなのだ。それは、地図に添えられた航空写真を見るだけでよくわかるだろう。

これは、そのちょっと先にある岬から撮った白浜の写真だ。

記事によれば、「珊瑚礁がないなど環境への負荷が小さいこと」などが候補地の条件とのこと。写真に描き込まれた赤い鉤型の直線が、想定される埠頭だろう。そこに作れば珊瑚を傷つけない、もしくは、傷が最小限で済むということかもしれない。

埠頭はそうなのだろう。しかし、滞在型のリゾートを作るということは、近くにホテルなどの施設を作るということだ。この狭い土地にホテルを作るためには珊瑚礁の海を埋め立てなければならないだろう。でなければ山を潰さなければならないだろう。「環境への負荷が小さい」などと言えるだろうか? 

何よりも気になるのは、「回頭域は、現時点における世界最大のクルーズ船の全長(L)361m(ロイヤル・カリビアン・インターナショナルのオアシス級客船)を想定し、その2倍(2L)の722mを回頭場の直径にしている。」(強調は引用者)というところ。

ロイヤル・カリビアン・インターナショナルはつい昨年のこと、この「笠利湾」の西側、龍郷町に同様のリゾート施設を作る計画を打ち上げ、地元からの反対運動に遭って断念した会社だ。いろいろとリンクを貼りたいところだが、とりあえず、このNAVERまとめで(リンク)。

語るに落ちるとはこのことだ。要するに直接開発しようとして失敗したロイヤル・カリビアン・インターナショナルが、国交省にロビー活動をかけてこんな計画を作らせたのだろう。

環境破壊阻止などに熱心な者ではない。単に無駄だと思うのだ。100人集まればいっぱいになる砂浜に1,000人も2,000人も連れてくることはない。この楽園に来たければ、お椀の船を箸の櫂で漕いでくればいいのだ。

白浜から岬を回ったところが僕が2,3歳のころから15の歳まで住んでいた集落だ。その目の前の小さな湾の光景がこれだ。

さっきの白浜の写真を撮った場所の近くで、後ろを振り返ればこの写真の光景が見える。そういう位置関係だ。

位置関係はともかく、何が言いたいかというと、この埠頭と防波堤だ。こんなものは僕が子供の頃にはなかった。入江になっているから、波なんか高くない。防波堤など必要だと思ったことはない。小さな漁船が繋留されている程度の浜に、こんな埠頭は必要ない。この埠頭はおそらく(たまに帰省したときに見る限りでは、ということ)、利用されていない。


これが国交省の仕事だ。

2017年8月15日火曜日

Bocadillos

TwitterやFacebookのステレスマーケティングにはうんさせりさせられることも多く、腹の虫の居所が悪い時には、削除して報告したりするのだが、ステマといっていいのかわからない情報ページでは、実はひそかにいいアイディアをいただくこともある。

以前、コーヒーのペーパーフィルターは油漉しとかハンバーガーやサンドウイッチの包み紙にも使える、なんてアドバイスを見て、これはいいと思ったのだった。

最近はもっぱらフレンチプレスコーノ式ドリッパーとを使っているので、カリタ式のドリッパー用フィルターが余っていて、アドバイスに従っていろいろと使っている。

今日はバゲットサンドを作ったので、そのホールダーに使ってみた。バゲットサンド。スペイン風に言うとbocadillo。で、スペインのbocadilloは縦に切って具を挟むという印象があったのだが、最近、何かの写真で水平に切って具を挟む例も見たので、今回、バゲットを水平に切ってボカディーヨを作ってみたのだ。

レタス+生ハム+チーズ+キュウリ
レタス+オイルサーディン+キュウリ

昨日作ったキュウリとパプリカのピクルスも添えてみた。

僕は常々、なぜ日本のバゲットは外皮が柔らかいのかと不満に思っていたのだが、焼いてみたら硬くなることに気づいた。もっとも、中身も硬くなるのだが。


でもいいや、ともかく、うまい。

2017年8月9日水曜日

使い初め

以前購入を報告したブックノート。いよいよ使い出した。

サイズはB6、いわゆる四六判の本の大きさ。だから先代のモレスキンのノートと比べると、背が低い。

だからふだん使っているインク吸い取り紙も、こうして少し切ることになる。

いいことがひとつ。そもそも僕がひとつのノートにすべての情報をまとめることを始めたのは、以前も何度か書いているが、大学2年の冬、クリスマス・プレゼントにローラー・ボールペンをもらったことがきっかけのひとつだった。ところが、モレスキンの紙だと、ローラーは裏に滲んで使えない。だから万年筆と油性ボールペンを使っている。普通は万年筆。本や新聞をメモを取りながら読む時にはボールペン。しかして、ブックノートはローラーで書いても滲まない。だから油性ボールペンの代わりにローラーが使える。

すべてを1冊にまとめるとはいっても、今では日々の買い物のメモはiPhoneのメモに書きこみ、買い終えたら消すようにしている。論文などを書くための読書メモも、メモはノートだけれども、引用などは直接PCのソフトに書きこんだりしている。だから以前に比べてノートの使用頻度は減った。それでも、まだまだ重宝しているのだ。年に数冊のペースでノートを使っている。

今、取り組んでいることのひとつはこれ:

『ドン・キホーテ』についての短めの(400字×10枚ばかりの)文章。

こういうのがいちばんむずかしい。これだけ長い本について、比較的短い文章を書くというのが。

そういうときには、まとまりや構成など考えず、ともかく、いくつか、紹介したい箇所についての文章を一段落ずつ書いてみる。今回も3つか4つのポイントについて文章(段落)を作ってみた。

そうしているうちに道筋が見えてくることもある。今回も少し見えて来た。ただし、作った段落のうちひとつだけが使えそうだ。他の3つは惜しみなく捨てる。今回は使わない。いつか使えるかも知れないけれども、気にせずに放置だ。

文章を書き慣れない者は往々にして書いたものを捨てたり書き換えたりすることに抵抗を感じる。これまでも何度か、削除や書き換えを頑なに拒む学生にほとほと参ったことがあった。

今日、FB上で、とある新聞社の写真部に勤める友人が他の友人に写真がうまくなるこつを伝授していた。そのひとつは「いっぱい撮ること」。数十枚撮ればそのうち1枚くらいはいいのができるかもしれない。――さすがはプロ。そういうことなのだ。僕らの目に触れるたった1枚の背後には、使われなかった数十枚数百枚の写真がある。

僕らが読む1ページの文章の背後には、捨てられたり変形されて原型を留めなくなったりした何十ページ何百ページもの文章がある。


そしてその背後に何ページものノートのメモがある。モレスキンが、ブックノートが。

2017年8月3日木曜日

満島ひかりの歌や島中響(とよ)まるる……

園子温『愛のむきだし』(2008)を見て以来(つまり、それ以前は良く知らないのだが)、満島ひかりのファンなのだ。顔も体つきも、その演技にも惹き付けられてならないのだが、最近つらつらと思うことは、誰かに惹き付けられる時にたいていそうであるように、僕は満島ひかりの声が好きなのだろうということ。

そんなわけで、満島ひかりの声を活かすために作られた映画を観に行ってきた。


いや、もちろん、島尾敏雄、ミホ夫妻への僕なりの興味があるのだが、ミホ役を満島がやるのだから、もはやどちらに対する興味に導かれたのかはわからないのだ。

映画『海辺の生と死』は島尾ミホの同名のエッセイ集と島尾敏雄「島の果て」が原作だと書いてある。「島の果て」は新潮文庫『出発は遂に訪れず』に収録された短篇だ。

島尾敏雄は特攻艇震洋の部隊を指揮するために加計呂麻島の呑ノ浦にやってきた海軍中尉。そこの国民学校で教師をしていたのがミホ。二人は恋に落ち、夜な夜な浜の突端を回ったところにある塩作り小屋で逢瀬を重ねる。結局、島尾敏雄に出撃命令は出ないまま戦争は終わる。

以上が、おそらく、事実のあらまし。敏雄はそれを「島の果て」という短篇に書き、さらに後年、ミホは『海辺の生と死』に収めたいくつかのエッセイでそのことを彼女の視点からの思い出として書いた。

敏雄の短篇はあくまでも創作で、加計呂麻島を「カゲロウ島」と呼び、自らを朔中尉、ミホのことをトエと名づけている。こうした命名と小説内のいくつかの台詞やエピソードなどを盛り込みながらも、基本的にミホの回想を基に脚色したのが今回の映画。

したがって、島尾文学のいかにも島尾らしい要素の一部は脱落することになる。「島の果て」ではトエは集落の出身の者ではないことがほのめかされ、教師ではなく「部落全体のおかげで毎日遊んでくらして行くことができました」と表現され、かなり謎めいた娘として提示される。

一方で、部下たちの統制に悩む文弱な将校ぶりは、ミホのエッセイからは見えてこない部分なのだが(ミホのエッセイでは島尾隊長のカリスマ的人望が印象づけられる)、映画は敏雄の短篇からそうした要素は取り込んでいる。

結果、凛とした小学校教師ミホの声が映画全編を通して響きわたることになる。敏雄の短篇よりも大人なミホが立ち上がる。朔は「島の果て」よりも少しだけ人望を集めることになり、その代わり、深く悩んでもいる。

トエことミホ、こと満島ひかりの声の響く映画は、島尾敏雄の短篇以上に多言語的でもある。トエが子供たちに歌って教える浜千鳥の歌は、「島の果て」ではわずか2行のみ(浜千鳥、千鳥よ/何故お前は泣きますか――〔ルビ:ぬが・うらや・なきゅる〕)なのだが、ミホのエッセイでは、終戦の前々日、島尾隊長を待ちながら歌ったことになっているこの歌は、こう記される。

チドリャ ハマチドリャ(ルビ: 千鳥 浜千鳥)
ヌガウラヤナキュル(ルビ:何故 お前は 泣き居る)
カナガ ウモカゲヌ(ルビ:君が 面影の)
タチドゥ ナキュル(ルビ:立つ故に 泣き居る)
(……)

という具合に一連まるごと再現されている。


そして映画では、最初の塩作り小屋での逢瀬の時に、これがまるごと、満島ひかりの声で歌われるのだ。(歌唱指導は朝崎郁恵。たぶん、一度、彼女自身の歌が映画内で流れている……と思う)