2016年4月21日木曜日

どうしちゃったんだろう?

どうしたわけだ!? すっかりブログの更新を怠っていた。

3月には『第三帝国』の翻訳を終え、これから校正に入る。

4月の9(土)、10日(日)には第4回世界文学・語圏横断ネットワーク研究集会があった。東大の本郷キャンパスで、僕はホスト役を務めることになった。いや、ホスト役のみではなく、第1分科会「南の文学」のコーディネーターを務めた。

第2回日本翻訳大賞では『素晴らしきソリボ』の関口涼子さんらと共に、キルメン・ウリベ『ムシェ』の金子奈美さんの受賞が決まった。

授業も始まっている。

僕はちゃんと生きているのだ。

そういえば、この間、ダニエル・アラルコン『夜、僕らは輪になって歩く』藤井光訳(新潮社、2016)だって読んだ。

ディシエンブレという劇団に参加して地方を回るネルソンが被った不興を、彼と束の間関わりを持つことになったジャーナリストの「僕」が、事後、取材して再構成するという内容。ガルシア=マルケスの『予告された殺人の記録』の形式だし、取材で取れた証言と、それに基づいて過去を再構成する語りが入り混じる仕方は、バルガス=リョサをも彷彿とさせる。いや、何もこの二人を思い出す必要もないのだが、こうした疑似・メタ・ドキュメンタリー的手法は、近年、多く見られるような気がして(バスケスの『物が落ちる音』などもそうだ)、こうした新しい世代がガルシア=マルケスから引き継いだものがあるとすれば、『百年の孤独』路線というよりは、『予告された殺人の記録』路線なのだよな、との思いを新たにしたのだった。

形式はそういうものではあるが、ネルソンの身に降りかかった不興を、最初から小出しにして読者の興味を繋ぐしかた巧だし、てっきりネルソンは殺されるか死ぬかするのだろうと思ったら、そうではないという、いわば「どんでん返し」のような結末に落ち着くのも、なかなか面白い。

ディシエンブレの座長ヘンリーは、かつて政治犯として投獄されたことがあり、獄中での友人・恋人ロヘリオの獄死を知らせるために、彼の故郷Tへ出向く口実として劇団は地方公演旅行に出かけるのだが、ヘンリーが政治犯と見なされたのも、カルペンティエールの短編を舞台化したことによってキューバとの繋がりを疑われたからだし、獄中でも演じられ、地方公演の出し物としても選ばれたディシエンブレの代表作『間抜けの大統領』という作品にはアレホという名の人物が登場する。そうした細部にも僕は喜ぶのだった。