2015年4月13日月曜日

私たちは19世紀に生きているのではない

シャウル・シュワルツ『皆殺しのバラッド――メキシコ麻薬戦争の光と闇』(アメリカ、メキシコ、2013)

ぼくの勘違いでなければ、この映画について日本で言われていることの大半は、メキシコ(のみ)の麻薬戦争の文脈と、でなければナルコ・コリードと呼ばれる音楽のことのみに尽きているように思う。果たしてそうなのか? この語り方は一種、ミスリードしていないか? トレイラーでも公式サイトでもこの映画を構成するもうひとつの重要な極を隠していないか?

焦点の当たる人物はふたり、リチ・ソトとエドガル・キンテーロ(字幕ではエドガー・キンテロ)。

リチ・ソトはフワレス市で警察の犯罪捜査課に勤める34歳の男。フワレス市はロベルト・ボラーニョ『2666』の舞台サンタ・テレサのモデルとなった国境の都市。アメリカ合衆国テキサス州エル・パソとはフェンスを隔てて向かい合っている。エル・パソは合衆国一安全な都市だ。フワレス市はボラーニョの小説では連続女性暴行殺人事件の舞台だったけれど、今では麻薬戦争の最前線。麻薬カルテル同士の抗争が市民・警官などを巻き込み、凄惨を極める。2010年には年間の殺人事件が3,000件を超えた。

警官のリチは家族と暮らす独身だが、恋人はいる。家族から心配され、恋人からはUSAに行こうと誘われながらも愛する故郷フワレスに留まっている。警官仲間が殺され、脅迫され、でなければ無力感たっぷりに麻薬マフィアたちに譲歩したりしている。

もうひとりの焦点人物エドガル・キンテーロはLA在住。LAというのはラテンアメリカではない。ロサンジェルスだ。ナルコ・コリードという歌を歌うグループ〈ブカーナス・デ・クリアカン、シナロア〉のヴォーカリスト。麻薬カルテルのボスやチンピラなどアンチヒーローの仕事や人生を歌にして儲かっている。ナルコ・コリードはMovimiento Alterado(alteradoは昂揚して変質した、というような意味。アルタード・ステーツの「アルタード」だ)というムーヴメントに乗って大流行、今やラップを追い越す勢いなのだという。LA、エル・パソ、アトランタ、シアトルなどにツアーに回る。

そう。つまり、この映画はUSA/メキシコの対比を扱っているのだ。エドガルたちはメキシコの麻薬を吸い、麻薬王たちを謳いあげ、実際のメキシコを知りたいとメキシコに憧れて(そのくせ行くのは最前線ではなく、そもそもの発祥地シナロア州クリアカン)いる。

両国の対比だけでなく、映画はまた相互干渉をも扱っている。共犯関係と言えばいいか……エドガルたちの歌はメキシコでも流行り、歌われ、楽しまれ、ナルコたちを鼓舞し、若者たちの憧れを使嗾している。この対称と干渉が麻薬戦争の根本問題の縮図であることは言うまでもないだろう。スティーヴン・ソダーバーグ『トラフィック』(2000)などは国境を跨いだ麻薬問題を既に扱っているけれども、そうした先行する作品に比して『皆殺しのバラッド』は、ただ経済、社会、厚生上の問題のみでなく、コリードの流行という文化的な次元での国境問題を扱っている点で見どころがある。Narco cultura (麻薬 文化)という原題は伊達ではない。

コリードというのは、『皆殺しのバラッド』の邦題のとおり、イギリスで言うバラッドに相当するものに起源を持つ。スベイン中世のロマンセと呼ばれる短詩だ。叙事詩が変形してできた、詩であり音楽であり娯楽でありニュースであったものだ。この民衆詩がだいぶ長い命脈を保つのだが、一方で高尚な文学としての詩にも採り入れられ、文学史を活性化してきた。ロマンセはスペイン内戦のプロパガンダ雑誌などでも盛んに詠まれた。

このロマンセが新大陸に渡り、たとえばキューバではアフリカのコール・&・リスポンスの形式のリフレインと混ざってソンの原型ができ、デシマ、グワヒーラなどの詩=音楽に流れて行った。メキシコではそれがコリードとなった。

メキシコ革命のコリードなどは盛んに歌われ、まだラジオ放送以前の社会でニュース・メディアとして機能した。面白いのが、テキサス。アメリカ合衆国に併合されてから、メキシコ系住民たちが国境警備隊、いわゆるテキサス・レンジャーズにバンバン殺されていたのを背景に、単なるニュースとしてのコリードでなく、反体制というか、アンチヒーローのコリードができる。代表的なのが「グレゴリオ・コルテスのコリード」。テキサス・レンジャーズに家族を殺されてしまったから、こっちが殺してやった、という歌。これを研究したアメリコ・パレーデスは合衆国におけるチカーノ(メキシコ系住民)文化研究の礎を築いた。

さて、既にニュース・メディアである必要のないコリードが、しかし、形式としてはアンチヒーローの活躍を歌うものとして脚光を浴び、もはや街の広場などでなくクラブなどで歌われ、商業化され、成功を収めているというのだ。そしてそれが麻薬戦争の当事者、国境の向こう側のメキシコ人たちと何とも言えぬ共犯関係を結んでいる。複雑な話だ。


複雑な話なので、これ以上の考察には踏み込まないけれども、ともかく、『皆殺しのバラッド』はメキシコの悲惨を描いたドキュメンタリーではない。国境の両側の現実を描いている。ミスリードされてはならない。字幕に出る地名表示をいちいち確認し、意識しながら話を追うことだ。これをメキシコ(のみ)の問題だと考えたら、この極めて21世紀的問題を19世紀的問題に戻してしまうことになる。