2015年3月31日火曜日

ただの一瞬

今日は火曜日、平日だが、考えてみたらすべての学校はまだ春休み期間だし、平日でも休日みたいなものだ。だから花見客も昼間から多い。

帰りにちょっと遠回りして寄った飛鳥山公園も花見客がいた。たくさん。

ぼくは学生時代、ここを何度も通過し、ここで何度も酒宴を開き、……等々したはずなのだが、ここにまつわる思い出はひとつしかない。ある日、王子駅南口からこの公園に上り、登り切ったところで逆ルートを(つまり大学から)歩いてきたモンゴル語科(当時)の大塚君という友人と擦れ違った。擦れ違いざま振り返った大塚君が遠くのビルに沈み行く太陽を見つめ、「きれいな夕陽だ」とつぶやいたのだ。事実、それは美しい光景だった。

(こう書いたら、もうひとつこの公園にまつわる記憶がよみがえってきたのだけれども、それはここでは書けない)こんな風に、長い年月の多くの出来事がほんの一瞬の出来事に集約されてしまうことがある。ぼくはたとえば、10歳になる頃までに何度も何度も髪を切ったはずなのだけれども、散髪の記憶は一度しかない。何百回も病院に行ったはずなのだけれども、(やはり10歳くらいまでの)病院の記憶は一度しかない。

こんなことなら、きっと、ぼくは死の瞬間に、自分の人生について、ただひとつの瞬間のことしか思い出さないのだろうなと思う。それはどの瞬間なのだろうと今から楽しみに思う。一方で切り捨てられてしまう多くの瞬間を思い、悲しくなる。

ひとの人生を語るにはただの一瞬を語ればいい。ボルヘスはそう言った。タデオ・イシドロ・クルスの人生を語るには、チャハーという鳥が鳴いた瞬間を語ればいいのだ(そういえば久野量一さんが最近どこかで、このボルヘスの言葉を引きながら部分と全体ということを書いていた)。


この太陽の光。この瞬間が、意外に、ぼくの人生を語る一瞬なのかもしれない。