2014年3月30日日曜日

意味の横滑りなのか頭打ちなのか?

今日、3月30日(日)の『朝日新聞』第1面には「これって、学歴フィルター?」という記事が掲載された。ある大学の学生が人気企業の説明会に、申し込み開始と同時に申し込もうとしたら、「満席」が表示され、できなかったと。ところが、彼女の友人でより難関大学とされている大学の学生には「満席」表示は出なかった、と。そんなエピソードを紹介して、「学歴の持つ意味と変化の兆しを、連載で」報告するという……

これって、「学歴」? 「偏差値」とか、「難易度」なのでは? 「学歴」の意味は「学業に関する経歴」(『広辞苑』)なのだから、例えば「学歴社会」と言ったときに、高卒より大卒の方が会社などでの待遇がいいこと、と認識されていたように思う。ところが、最近ではどの大学を出たかを問題にするさいに「学歴」という語が採用されている。これを誤法とまでは言うまいが、つまり、かつて「偏差値」、「難易度」などで言われてきたことに代わる婉曲語法だとみなした方が良さそうだ。

「偏差値教育」の弊害が叫ばれたのは、大学入学共通Ⅰ次試験の導入と軌を一にするようにだったと思う。偏差値は70年代から学力査定に広く使われるようになったのだから、そう言って良かろう。この批判に応えるために共通Ⅰ次試験は大学入試センター試験に取って代わられた。実質は大差ないのに……そして、「偏差値」という単語だけが消えた。のだと思う。代わりに現れたのが「学歴」だ。もちろん、昔からあった語で、昔から曖昧ではあったが、まだ、高卒か大卒か、という意味合いの強かったこの語を大学の入学難易度による格付け、の意味で使うようになった。(偏差値は他の場面で比喩として使うようになった。この間びっくりしたのは、「顔面偏差値」などという語を聞いたときだ。「画面偏差値が高い」だと? 「美人」と言え、「美人」と!)

さて、一方、『朝日新聞』同日の書評欄には大理奈穂子ほか『高学歴女子の貧困――女子は学歴で「幸せ」になれるか?』(光文社新書)の水無田気流による書評。こちらはどうやら(特に文化系の)大学院を出た女性の実情のレポートらしい。つまり、より高位の高等教育を受けた者、の意味で「高学歴」が使われているのだ。

「学歴」という語の大学段階での横滑り(頭打ち?)は、このことの問題を産み出す。いや、産み出すのではなく、隠蔽する、というのが正しいだろう。大学の先には大学院があるのだ。国際公務員など、大学卒業では就職できない。修士号以上の学位を持っていないと。そして別に国際公務員などでなくとも、企業の重役や社長で、学士(大学卒業者)でなれる人など、今ではあまりいない。それが世界の実情だ。グローバル・スタンダードだ。高等教育というのは大学院教育のことだ。

この国の市民社会というか企業社会の最大の問題はそこにあるのじゃないかと、ぼくなどは思いたい。文化系諸分野の修士号や博士号を持つ者を敬遠する大企業。

「学歴社会」が学士と修士、博士では会社の待遇が違うこと、の意味で使われる日をぼくは夢見る。「学歴フィルター」が学士お断り、の意味になることを。まかり間違っても修士以上お断り、の意味にはならないことを。大学院生を教えている身としては、そう願う。でないとやっていられないのだ。


ちなみに、ちょっと前にご縁のあった『朝日新聞』の記者は博士であった。がんばれ、『朝日新聞』! 

(写真はイメージ)

2014年3月21日金曜日

1日がかりのお仕事

参加してきた。「東京外国語大学/ラモン・リュイ院 交流協定締結記念国際シンポジウム カタルーニャを多元的に考える――独立をめぐる想像力とリアリティ」@研究講義棟115教室

樺山紘一さんとエステル・バルベさんの基調講演に続く第1部《独立の想像力、政治の構想力》でぼくは「作家たちはバルセローナを目指す」としてラテンアメリカ文学とバルセローナの緊密な関係を話してきた。つまり、1960年代の〈ブーム〉を支えたのがバルセローナの出版社だったこと。その出版社の後押しでスターになったバルガス=リョサが「かつて作家になりたがる者たちはパリに行ったものだが、今ではバルセローナに行く」と言う事態が到来していること(パスカル・カザノヴァの言葉など引用しながら)。ボラーニョとか、ビジョーロとか、ソレールとか……で、ジョルディ・ソレールの『海の向こうのアカたち』と『熊の祭』を紹介してきた。

ジョルディ・ソレールは自身、共和国側について敗走し、メキシコに逃れたカタルーニャ人の孫だが、メキシコ人として育った「私」ソレールが、祖父の、そしてその弟の足跡をたどり、再構成するという形のオートフィクションを書いている。それが紹介した2冊。そこでのカタルーニャのあり方。

一緒に登壇した成田龍一さんは井上ひさしの『吉里吉里人』を紹介した。千年王国の解放思想が20世紀に実現を目指せば国民国家になる、と。

第2部《国民国家とそこに包摂された諸民族体(ナショナリティーズ)》が本格的なカタルーニャについてのお話。マリアノ・ラホイの強権的な態度に自決権を要求するものとしてカタルーニャの国民投票がある、と。


プーチンといいラホイといい安倍晋三といい、……ちょっと前のサルコジ、ベルルスコーニ、ブッシュ馬鹿息子、……大人になり切れない駄々っ子ばかりが政治を執っているなあ。

2014年3月16日日曜日

久々の午前様

ある研究会を主宰している。そこでちょっとした話をしてきた。研究発表というやつだ。6月のラテンアメリカ学会の大会でパネルを組んで研究発表をやる。その際の僕の発表の準備。

準備、というのは、もう発表すべきことが決まっているということではない。最初の思いつきを話す、という意味だ。こうして発表をして、批判を受け、思考を見直し、足りない部分を補い、あるいは修正を加え、ひとつの論考に仕上げていく。論文を書くには踏まなければならないいくつものステップがある(*)わけだが、そのごく初期段階の一歩だ。

(*)文献検索と収集、読みとノート取り、情報の整理、シャッフル、最初の草稿、その検討、練り直し(初めに戻る)、2回目の草稿、繰り返し、繰り返し……、完成稿.、という手続き。

で、案の定、前途は多難なのだった。そのことが確認されたのだった。

その後の懇親会はだいぶ遅くまでつき合い、タクシーで帰宅。帰り着いたときには3時を回っていたのだった。


やれやれ。20代じゃないんだから。こういうことになると、案の定、翌日は、つまり今日は1日調子が出ないのだ。

2014年3月7日金曜日

女だって読書したい、とヴァージニア・ウルフ

ロサ・モンテーロとカルマ・リエラ、ふたりのスペイン人作家の講演会を東京外国語大学さくらホールに聴きに行った。スペイン語。通訳なし。

世界女性デーの明日、記念の講演をセルバンテス文化センター東京で行う予定。文芸フェスのサテライト企画でもあるこの講演会では、当然、通訳がつくのだが、今日はスペイン語のみで。

モンテーロがまずは、自分たちはスペイン文学ではなく外国の文学やせいぜいラテンアメリカの作家たちを読んで育ったが、民主化以後、新スペイン小説とでもいうべき事態が出来したのであると概観し、さらにそこに市場の変化が重なり、まるで作家であるということは作家として社会的にみなされ、テレビに出たりこうして講演したりすることであるかのように捉えられているけれども、実際は孤独な作業として書いているのよね、と語った。

マヨルカ島の出身でカタルーニャ語とカスティーリャ語(スペイン語)で書き、自らの作品を翻訳もしているリエラは、モンテーロの発言に補足を加える形で、2言語状態や書くことの意義(読むことである、など)、多言語国家であるスペインの、それ故の豊かさなどについて触れた。キューバ帰りの祖父母の世代の語りを想起する最新作『無垢の時』のことなども。

いつものごとく、最初、質問がなかなか出なかったのだが、いったん出だすと、盛り上がったのだった。フェミニズムの観点からモンテーロで博士論文を書こうとしたがやめたという人(と書いているが、もちろん、その人は知り合いだ)の質問に答え「女のエクリチュール」について論じた応答がいちばん盛り上がったか? (そんなものはない、という答だが)まさにそのことについて、明日、セルバンテス文化センターで話すのだということ。



ちなみに、この記事の表題と中味は、特に関係ない。ウルフが引用されたわけではない。

2014年3月4日火曜日

大人だって恋がしたい♡

これが『GRANTA JAPAN with 早稲田文学』01。表紙はもう今ごろあちこちに出回っているので、背面を。見えるだろうか? アンドレス・フェリペ・ソラーノの文字。この人の短編を僕が訳しているのだ。


製作に『トニー・マネーロ』のパブロ・ララインが名を連ねているだけあって(?)、始まりはディスコ、というかクラブ。離婚して12、3年になる中年女性グロリア(パウリーナ・ガルシア)が、そこで踊りながら新たな恋を探す、という話。〈めまいパーク〉という遊園地を経営するロドルフォ(セルヒオ・エルナンデス)と出会い、つきあい始めるが、1年前に離婚したばかりで2人の娘や元妻らにいまだに頼られている彼の言動と、真剣に今後の人生のパートナーとしてつきあいたいと考えるグロリアとの意見は時に擦れ違い、……という、まあよくあるラブストーリーと言えばラブストーリーだ。

が、まだ40歳くらいのレリオは、初老の性をもやんわりと表現したりはせず、あけすけに描くものだから、単なるラブストーリーでは終わらない。

それに、彼らの属する社会背景が時々透けて見えるので、ほっこりとしてばかりもいられない。2013年の映画だが、この少し前に盛んになった学生たちのデモ(授業料値上げに反対するもの)の時期を背景にしている。グロリアには30前後の子どもがいるから、60ちょっと前というところだろうか? ちょうど1973.9.11のクーデタで学生たちが虐げられたころに青春を送った世代だ。立派な家に住み、ホームパーティではギターなど弾いてボサノヴァを歌う、「チリを愛するなんて難しいことだ、まったく別ものになってしまったんだ、本物のリーダーもいない。若者たちはツイッターやフェイスブックに頼るしかない」なんて主張する社会学者が友人にいたりする。グロリアの子供たちはひとりはヴァイオリニストか? そしてもうひとりがヨガのインストラクター。それぞれ独立して上手くやっているけれども、ロドルフォの同年代の娘たちは、要するにドロップアウトして定職もないらしい。父にすがるしかない。しかしてその父、軍隊にいて、退役後は軍関係の商売をしていたというから、明らかにピノチェト派の有力者だったというわけだ。グロリアの離婚した夫は再婚しているが、なんだか酒乱みたいだし、娘との関係もちょっと怪しい……そうした背景が深みをもたらしている。

『グランタ』を受け取ったぱかりだったので、つまりソラーノの短編「豚皮」を思いだし、映画のセックスシーンの最中にグロリアが何か不思議な言葉を叫ぶのじゃないかと、気が気でなかった。なんちゃって。

一方、最近の関心から、気になったのは以下のシーン。アナ(ファビオラ・サモーラ)のところでヨガをして、レッスンがひけた後、グロリアは彼女に恋人を紹介される。テオという名のスエーデン人だ。少し英語での会話が入る。で、迎えの車が来たので若いカップルはそれに乗りこもうとグロリアに別れを告げる。アナはスペイン語で「もう行かなきゃ」といい、挨拶すをする。テオとグロリアの間にお決まりの挨拶が交わされる(英語で)。そして、車に乗りこむ瞬間、アナがグロリアに "Call me later"と言う。英語で、だ。 "I'll call you later" だったかも知れない。はっきりとは覚えていない。でもともかく、英語で言った。この使い分けというか、スイッチングというか、スイッチングのミスというか、それがなんだか面白いな、と。

……あーあ、恋がしたいな……


……なんちゃって。

2014年3月3日月曜日

7年ばかり前の話

ご恵贈いただいた。マシャード・ジ・アシス『ドン・カズムッホ』武田千香訳(光文社古典新訳文庫)

武田訳によるマシャード第2弾。前回の『ブラス・クーバスの死後の回想』は原稿を渡してから本になるまで5年以上かかっているはずだが、第2弾はあっという間だった。1度道が開くと後はすいすい、ということか? 僕のペレス=ガルドスは渡したっきり、5年ばかりも音沙汰なしだけれども。

今日、いただいたのだ。ある大学の出す『○○大学評論』という雑誌に原稿を送付したと思ったら、研究室にこれが届いていた。で、別のある大学の刊行物も届いていた。

『中央評論』No. 286(65巻4号)

焦点が合っているので読めると思うが、ここに『アマディス・デ・ガウラ』①の文字が見える。故・福井千春さんが遺した訳稿の連載が始まったのだ! 

ガルシ・ロドリゲス・デ・モンタルボが(最終巻を)書いた騎士道物語で、最初にして最大のヒット作だ。『ドン・キホーテ』の中でも最も言及されている傑作中の傑作だ。

白状すると、これをちゃんと通しで読んだことはないのだが、だからこそ、これの翻訳は出されるべきだとずっと思っていて、そういえば、たまたま上下に重なっているので話を繋げると、武田さんが光文社の編集の方に『ブラス・クーバス』の最初の原稿を渡したころ、僕は自分自身の翻訳したい作品を提案すると同時に、福井千春さんが『アマディス』を準備しているというから、何が何でもこれは出していただきたい、とお話したことがあったのだった。直後にご本人にお目にかかったときにその話をしたら、いや、あれはまだまだだから……とおっしゃっていた。それもあって話はその後進展していなかったと思う。

福井さんはどこまで訳されたのだろう。これを受け継いで『アマディス』の全訳を完成させてくれる人はいるだろうか? 『ドン・キホーテ』は牛島訳以後もいくつかの訳が進み、まだ2つほどのバージョンが準備中という。これはこれで言祝ぐべきことだけれども、その版の1つくらいは、代わりに『アマディス』に回してもいいのじゃないか、とも思うのだ。


連載第一回は渡邊浩司さんによる解説、経緯説明と、「物語のはじまり」のパート。ガウラ(ゴール)地方、小ブリテンの2人の王が出会い、ひとりが世にも美しい姫に恋をする話。わくわくの始まりだ。

2014年3月1日土曜日

詳しくはウェブで!

今ごろ本屋の店頭には『GRANTA JAPAN with 早稲田文学』Vol. ! (発売:早川書房)という雑誌が並んでいるはずだ。そこにアンドレス・フェリペ・ソラーノ「豚皮」という短編を訳している。まだぼくは実物を見ていないので、ここには書影は掲げられない。

その代わり(?)、昨日、買ってきた。

J.D.サリンジャー『フラニーとズーイ』村上春樹訳(新潮文庫、2014)

折り込みならぬ〈投げ込み特別エッセイ〉つき。サリンジャーは解説のようなものはつけるな、と主張しているので、あるときから先の訳や新版には日本の翻訳書にお馴染みの「訳者あとがき」や解説がつけられない。それで、こんな形になったのだろうと思って、「こんなに面白い話だったんだ!」というタイトルのその冊子を開いてみたら、案の定、そうだとのこと。

大学に入ったころに、『ライ麦畑』の次の1冊として読んだのが『フラニーとズーイ』との最初の出会いであり、そのときは宗教臭が鼻につき、読み終えてそれきりになっていた。今回、翻訳の話が出て読み返してみたら「こんなに面白い話だったんだ!」と驚いて、訳すことにした。何が面白いかというと、つまり、文体だ。『フラニー』は慣らし運転という感じできて、『ズーイ』にいたると一気にドライヴする。素晴らしい。宗教臭については、やはり逃れられないけれども、これは歴史的なものであり、興味のある方はその辺を研究してみるのも良かろう。が、ここではあまりくだくだと説明することはしなかった。「ズーイ」という発音の方が多いように思うので『フラニーとゾーイ―』でなく『フラニーとズーイ』にした。そして最後の一段落:

 紙数の制約もあり、本書の成立事情などについてはここでは書き切れなかった。この小文の長いヴァージョンが新潮社のウェブ・ページに掲載されているので、ご面倒だがそちらにアクセスしてお読みいただければと思う。


つまり村上春樹までが「詳しくはウェブで!」をやっているのだった。


……あ、いや、非難しているのではない。何しろBBC Worldのポッドキャストのニュースですら、最初に必ず、詳細はwww.bbc.comを訪ねてね、と言ってから始める時代だ。避けられないのだ。避けられないから村上春樹ですらそうしている、というのがなんだか愉快だ、と……