2014年7月6日日曜日

戦後の思考/記憶(2) ——前近代の残存

木村榮一が著書『謎解きガルシア=マルケス』(新潮選書、2014)ブニュエルの回想録(『映画わが自由の幻想』)の、第一次世界大戦ころまでスペインの田舎には中世が根強く残っていたと書いた箇所を引き、それをスペインおよび旧スペイン植民地のラテンアメリカ諸国特有の特徴だと敷衍している。

うーむ。ガルシア=マルケス論という文脈を考えれば、そこに目くじら立てるほどのことはないが、実際には、中世(少なくとも前近代、と呼んでおこうか)が残存していたのは、世界中どこでも事情は同じではないのかな、と疑問に思う。第一次世界大戦はドラスティックに世界を変えた。そこから緩慢な20世紀の進行が始まった。18世紀の産業革命、19世紀の都市化というが、それらは都市の景色と生活習慣を変えたのであって、田舎町はそんなに変わらないだろう。モダニズムとは田舎から都会にやって来ることによって数百年の時をまたいでしまった者の感じる眩暈の謂いにほかならない。「モダン」が騒がれていたころまでは、それに対抗するプレモダンがあったのだ。それが田舎なのだ。たぶん。そのモダンの感覚が、第一次世界大戦後、緩慢に消されていった。

この写真はぼくの育った鹿児島県大島郡笠利町(当時)大字屋仁の集落の前の海だ(ぼくのPCのデスクトップにもなっている)。裏の蒲生山から2010年ころに撮った写真だ。写真右手、入り江の奥にその集落はある。この海に渡されたコンクリートの護岸、これが珊瑚礁を損なうものであることは言うまでもないが、文化の面では、これは少なくとも3つの習慣を駆逐するものだった。ぼくはあまり頻繁に帰省しないので、これがいつごろできたのかは知らないが、90年代と推測される。言っておくが、1990年代だ。ぼくがこの海で泳いでいたころには、こんなものはなかったのだ。

さて、この護岸だかなんだかが壊したものは、徒歩による歩行と船による移動、そして12世紀からあったとされるある施設だ。詰まるところ、前近代を破壊したのだ。それが、1990年代後半のことのはずなのだ。

奄美は日本本土がそうであるように、山がちな島に、海岸沿いのわずかばかり平坦になった場所に集落が点在している。ぼくたちが子供のころまで、各集落の前には結構な数の船(はしけ程度のものだ。スプネと言ったように思う)が繋がれていた。近代化のわずかな名残は、引き潮のとき以外は海に入り込む位置まで達するコンクリートのスロープであり、そこにレールのようなものが敷かれていた。もう少し大きな船用なのだと思う。ともかく、浜に繋がれた船で人は、ちょっと沖に出て魚を釣った。以前は、それは移動の手段でもあった。

船で移動したのだ。戦後すぐまで、人々は。島にバスが導入されるのは岩崎バスが復帰直前の53年12月、奄美交通は54年。ぼくは子供のころはバスを利用していたのだが、戦後すぐの島の人々は歩いたのだ。多くは裸足で。そうでなければ船に乗っていたのだ。

この写真の向こうに見えている佐仁という集落から名瀬に向かう航路があったのだと、母は後に述懐していた。我々の集落の沖でも泊まったので、てんまと呼ばれるはしけに乗ってその船まで行き、それで名瀬に渡ったのだと。冬などは寒かった、と、もう80になろうとするころに母は、10代の日々を振り返って凍えるような仕草をした。

乗り合いの船でなくとも、船を浜に繋留して持っている者は、それで移動した。そうした時代の名残はいまだに、島の南部、瀬戸内町に行けば確認できると思う。はしけにモーターをつけただけの水上タクシーが向かいの加計呂麻島やその先の請島の間を行ったり来たりしている。

いつの間にか写真の施設ができ、浜には船が見当たらなくなった。

船に乗って名瀬に行っていた10代の母は、船に乗らないときには歩いて行ったのだ。そして歩くときは、もちろん、裸足だった。道など舗装されていない。ぼくたちの集落から名瀬までの道が完全に舗装されたのは、やっとぼくが中学のときだったからだ。前に書いたことだが、大宅壮一は復帰の翌年、つまり1954年、奄美を訪れ、名瀬以外の田舎での人々の暮らしが「土人のようである」と書いた。裸足に、ほとんど裸だと。復帰の10年後に生まれたぼくは弱っちいのでそんなことはなかったが、友人たちは本気になるとき(例えば運動会の徒競走で)、裸足になったものだ。


さて、この施設が壊した12世紀からのある施設、というものについては、また別の機会に書こう。