2014年4月9日水曜日

本の中の情報と記憶

本には様々な情報が詰まっている。小説となると、その情報量たるや膨大なものだ。筋を追うのでなく、そこに込められた情報を読み解くことにこそ小説を読む楽しみはある。

「原典を読む」という授業を担当している。文学部以外の学生にも受講可能な授業で、既に古典として定着した名作を原典で味わおうというコンセプト。今年はフアン・ルルフォ『ペドロ・パラモ』を読む。

岩波文庫版(杉山晃・増田義郎訳、1992)を開けてみた。「岩波」の印の隣に「コマラ/コントラ/メディアルナ」の書き込みがあった。物語が展開する場所のことだ。ぼくはこの小説は大学2年の時に授業でスペイン語で読んだのだが(読んだふりをしたのだが)、当時は岩波の別のシリーズに入っていたが、絶版だったか、あるいは単に金がなくて買えなかったかで、それは買っていない。そして92年に文庫化されたときに買って読み返したようだ。見返しや扉など、空いた場所に人物や舞台をメモするのはよくあることなので、これは、ちゃんと読んだという形跡にほかならない。

が、よく見ると、その右側、いわゆる散りの端に、何やら女性の名が書いてある。「浦江アキコ」

うーむ、誰だろう。当時つき合っていた恋人か? つき合う以前に振られた相手か? うーん、記憶にない。

グーグル検索かけたら、なんのことはない。ロカビリー歌手だと発覚。はて、ロカビリーなど、ぼくはあまり聴かないのだが……? Wikipediaによれば、90年代には女優としても活動していた、と。画像検索結果をみれば、なるほど、確かにおぼろげに、見覚えが。

たぶん、その女優活動の一環をTVか何かで見たのだろう。そして名前をメモしたのだ。忘れないように、と。忘れちゃっていたけど。

しかし、なぜこの彼女の名をわざわざ忘れないようにしようと思ったのか、その当時の自分の思いが理解できないのだ。うーむ。

本には様々な情報が詰まっている。作者の思いも、訳者の思いも詰まっている。そしておそらく読者の思いも。読者は情報を頼りに作者の思いを読み解いていくことがある。でも読み解くのが難しいのは、実は読者の思いかもしれない。


先日は、同じく90年代の日付のある、バーのボトルキープ券が別の本のページの間から出てきた。他人名義だった。