2013年12月9日月曜日

行きつ戻りつ思案橋

ミシェル・ウエルベック『地図と領土』野崎歓訳(筑摩書房、2013)

には、こんな一節がある。カフェと有名作家の関係について書いた箇所でのこと。

(同様に、有名なフィリップ・ソレルスは生前、クロズリ・デ・リラに指定席をもっていて、彼がそこに昼食を取りにやってくるかどうかにかかわらず、他のだれにも座ることはできなかったという)(112ページ。( )も本文中のもの。太字は柳原)

最後に割り注が入っている。「ソレルスはフランスの作家、現実には健在」。

『地図と領土』はウエルベックの他の多くの小説がそうであるように、現在のフランス社会を克明に描きながらも、実は視点は未来にある、という小説だ。ジェド・マルタンというアーティストの生涯を、21世紀のグローバル化された社会と、それに呑み込まれたフランス社会を辛辣に批判しながら描いているのだが、ときおり、後世の批評家の言辞を紹介して、これが当のジェドすらもがその生涯を終えた時代からの語りであることを示している。

だから、この「生前」のソレルスの話というのも、つまり、彼も死んだ後の世界からの回顧であろうことはわかる。

が、ウエルベックに慣れていない人や、まだこの時点で小出しにされているだけのそうした視座に気づかない人もいるであろう。生きているのに「生前」とは何ごとだ、と怒り出すソレルスのファンもいるかもしれない。注釈者でもある翻訳者としては悩めるところだ。


野崎さんはひょっとしたら、この文章を前に数時間、腕組みして唸ったのかもしれない。あるいは編集者と議論を重ねたのかもしれない……そんなことが気になっちゃうんだよな。