2013年8月10日土曜日

インディアン、嘘ついてもいいよ

ゴア・ヴァービンスキ『ローン・レンジャー』(アメリカ、2013)

何度か授業で扱ったジャームッシュの『デッドマン』のことをそろそろ本気で活字にしなければと思っていた矢先に、きっとその対としてチェックしておかなければならない作品に違いないと思われるものが現れた。それが、これ。だから観に行った。

なにしろ:

1) (米墨関係史をメキシコ側から眺めれば)悪名高いテキサス・レンジャーズの歴史性を背景に
2) 1930年代、大恐慌の真っ只中、戦争の用意期間に生み出されたヒーローで
3) スペイン語で「バカ」という意味の名を持つ従順な(「女性のよう」とドルフマンは皮肉った)先住民を従えた人物の

映画だとなれば、ましてや、

4) その従者トントを、あの名作『デッドマン』で素晴らしい主役を演じたジョニー・デップが演じる

となれば、『パイレーツ・オブ・カリビアン』の監督との息の合った組み合わせで、どれだけ自暴自棄に演じるか、楽しみではないか。

そりゃあね、いかにハリウッド映画とは言え、たとえディズニーの配給だとは言え、ナイーヴに白人はヒーローでござい、ってな調子には今では行くまい。先住民コマンチ族とのフロンティアを描いていても、彼らを悪人にするわけでもないし、かといって単なる善人というような存在にもしない。悪役の中にヘススという二言三言スペイン語をしゃべる者がいるが、それは飾りみたいなもの。結局のところ、悪は資本と富でした、それを求める人間の貪欲でした、という結果になるのは、皮肉というか、陳腐というか、ディズニーよ、お前が言うか?

それで、ローン・レンジャーというのはもともと、1930年代に続々と現れたバットマンやスーパーマンといったヒーローものの主人公と違い、昼間の顔というか素顔というか、正体というか、それを持たないものだった。だからアイデンティティの危機を感じない、苦悩しないヒーローだったのだ。そしてだからこそ他のヒーローと異なり、分裂気味になることがなかったので、逆に、皮肉なことに時代にとり残され、忘れ去られていった存在だったのだ(アリエル・ドルフマン『子どものメディアを読む』諸岡敏行訳、晶文社、1992)。「キモサベ」「ハイヨー、シルヴァー」「インディアン、嘘つかない」らの流行語だけを残して、ローン・レンジャーは忘れられた。

今回このヒーローが生き返ることになったのは、ローン・レンジャーのこうした特性をまるっきり否定することによってだった。正体は悩める新米判事兼テキサス・レンジャー、ジョン・リード(アーミー・ハマー)。トントは従順な馬鹿者などではなく、彼を最初は拒絶し、後に渋々と教え導き、時には喧嘩する存在だ。だから竿立ちになった馬にまたがってリードが「ハイヨー、シルヴァー」と叫ぶと、「そんなことするな」と戒めたりする。

さて、しかし、そんなわけで、ヒーローものというよりはテキサスという舞台設定に着目して徹底して西部劇であることを目指した『ローン・レンジャー』は、西部劇であるという意味において面白いものに仕上がっていると思う。

そしてなにより、『デッドマン』冒頭の西部劇の関節の外し方に対する目配せというか、応答というか、そうしたものが散見された。


と、ジャームッシュを引きあいに出せば、その規模の映画かと思われるかもしれないが、それはまったくそうではなくて、ともかくまあ、次から次へとスペクタクルを用意して実に2時間半以上も飽きさせないエンターテインメントではある。最近のスペクタクルものって、それにしても、長くなるばかりだな。