2013年7月20日土曜日

団結せよ(2)

『ブランカニーヴス』問題の続き。作品の公式ツイッターにはこうある:


やはり『ブランカニーヴス』という邦題は確信犯なのだ。本当は、スペイン語の発音に近づけるなら『ブランカニエベス』の方がいいとわかっていながら、この表記にしたのだ。「目で見た覚えやすさと、口に出した発音のしやすさを優先させた」と。

「目で見た覚えやすさ」と「口に出した発音のしやすさ」について異議を唱えることは簡単だ。日本人もスペイン人同様ヴ/ブの区別をしない。日本人にはヴやフ(f ということだが)の発音に大変苦労するひとがいる。かなりの数、だ。毎年ぼくはそんな日本人の発音特性に悩まされている。

でもまあ、それはいい。『ブランカニーヴス』の方が『ブランカニエベス』よりも覚えやすく発音しやすいというたかだか数人(と思われる)の映画配給会社スタッフの共通した感覚などはどうでもいい。なんなら認めてもいい。が、しかし、そんな感覚を優先させ、『ブランカニエベス』の方が一般に流通するスペイン語の音表記なのだという事実を、それと知りながら無視したということを、このツイートは認めているのだ。つまり、個人の感覚を知的誠実に優先させたと告げているのだ。

ちっぽけな個人の感覚が超えられないものがあるとするなら、それは、そこにある現実(言語的現実も含め……つまり、Blancanievesがどう発音されるかという事実)や、その現実を対象に人間が築き上げてきた歴史(スペイン語をカタカナで表記する仕方の伝統)であるはずだ。だからこそわれわれは長い時間をかけて教育を受け、歴史に対する畏怖の念(それを知性と呼ぶ)を身につけてから社会に出て行くのだ。その畏怖の念(知性)に基づいて公の発言をするのだ。そんな単純な法則も忘れ、この関係性を逆転させうると感じる、ノリ。悪のり。夜郎自大な世界感覚。俺が世界よりも大きいと考える尊大。

この尊大さが怖いのだ。この尊大さが一部の政治家たちに似ているのだ。この尊大さが、自身の発言の届く範囲内を理解しない子供じみた妄言の印象を与えるのだ。それをぼくは恐怖するのだ。


ぼくは現実の側に立ち、歴史の側に立ち、知的誠実を発揮し、思い上がった個人の尊大さを非難する。