2013年5月18日土曜日

そして間文化性ということを考える


ひとつ仕事を終えてから、本を買い、シャツを買い、そして行ってきた:

ウンプテンプ・カンパニー第13回公演『メメント・モリ――長すぎる髪をもつ少女の伝説――』台本・演出:長谷トオル、音楽:神田晋一郎、美術:荒田良

これはガルシア=マルケス『愛その他の悪霊について』(1994 邦訳、旦敬介訳、新潮社、1996 / 2007)を脚色したもの。

12歳の少女、シエルバ・マリーアがある日、狂犬に噛まれ、修道院に収容される話だ。狂犬病か悪魔憑きか、その彼女に対応すべく遣わされてきた修道士カエターノが恋に落ちる。とても簡単にまとめるならば、そんな恋の話だ。

が、それだけではない。それだけですむはずがないじゃないか。

とりわけ原作『愛その他の悪霊について』で印象的な要素は音楽と、そして、異なる論理(とでも言えばいいのか?)の存在だ。

シエルバ・マリーアの父、カサルドゥエロ侯爵の家の隣には精神病院があり、そこからしょっちゅう音楽が流れてくるのだ。しかるに、これを脚色した『メメント・モリ』は音楽劇だ。今回も神田晋一郎の音楽と生演奏つきで、役者たちは歌を歌った。スチール・ドラム風の打楽器が時折混じるピアノの演奏と、それに合わせた歌が、時にコミカルなリズムを与えて劇にアクセントをつけていた。劇のフレームの外の音楽がある以上、フレームの中に音を生じさせる必要もない。音楽と物語とのこの関係の差異(フレームの内か外か)が原作小説と脚色した劇との最大の差。

もうひとつの要素。『愛その他の悪霊について』で印象深いのはシエルバ・マリーアが黒人奴隷に育てられ、その世界に親しんでいたということだ。『百年の孤独』のレベーカがスペイン語を話せなかったように、ガルシア=マルケスの小説には何人か、白人クリオーリョの文化とは相容れない世界に育った人物が出てくる。とりわけシエルバ・マリーアは、修道士カエターノのキリスト教的価値観やヨーロッパ的教養、クリオーリョのカサルドゥエロ侯爵の世界観と齟齬をきたして印象に残る人物だ。

――と、そこまでの記憶はなかったのだ、ぼくはこの小説に関して。たぶん。これを脚色した劇『メメント・モリ』こそがぼくにそのことを思い出させたのだ。おそらく。黒人奴隷的世界観がクリオーリョ社会との間に軋轢を引き起こすことを思い出させるこの劇は、登場人物の多くを独白によるナレーターとしても起用し、多数の声をも響かせ、多数の他者の共存と拮抗をあぶり出して面白い。

ちょうどその前に行っていた仕事というのが、Walter Mignolo, The Idea of Latin America (Blackwell, 2005)などを引きながら、ラテンアメリカ主義的な解釈からカルペンティエールやガルシア=マルケスを解放し、たとえばアフロカリビアン文化との観点から読み直すことが必要だ、と説くための準備だったので、同時性に軽い興奮を覚えながら見ていたというわけ。