2012年9月8日土曜日

どこからがフィクションか?


「院生の毒舌な妹bot」というのが面白い。botとはロボットの略で、自動的につぶやくツイッターの仕組みのことだ。自動的にどうすればこんな呟きができてくるのかは、ぼくにはわからない。

面白いのだが、ぼくの立場でこれをただ面白いと笑っていると嫌味になる。真面目な顔して同じこと言うと脅迫になる。うーむ、難しい。しかたがないから、こんなのでも読んでみよう。

今野浩『工学部ヒラノ教授の事件ファイル』新潮社、2012

筒井康隆の『文学部唯野教授』のような小説を期待すると欺かれる。今野浩は筑波大、東工大、中央大などで教鞭を執ったオペレーションズ・リサーチ学の研究者。東大を出てスタンフォードで学位を取り、合衆国の大学でも教えたことのある自らを「ヒラノ教授」(立場によっては「助教授」など)という者に擬し、周囲の学生や同僚たちが起こしていった騒ぎを書いたもの。軽いごまかしからセクハラ、アカハラ、場合によっては(東工大時代の)同僚の自殺や(中央大での同僚の)殺人など、悲愴な事件までを、大学の事情を説明しながら記している。

大学の事情を説明しながら、というのが重要なところ。だから、トンデモ学者たちを笑うというものでもなければ、その非常識を糾弾しているわけでもない。漱石は『三四郎』を書いたのは、当時、一部のひとのものしかアクセスできなかった大学の生活というのを書く必要があったからだ、とは誰が言ったのだったっけ? ともかく、大学改革という名の上からの改悪の始まりの時代には先の筒井の小説のようなものが生まれ、そして、その帰結として「院生の毒舌な妹bot」が存在する時代にはこうしたものが必要なのだろう。

今野が明言していることで一番重要な(とぼくには思われる)ことは、少なくとも彼の学生時代の日本の大学は「学部一流、大学院二流」であったこと、そしてその逆がアメリカ合衆国の大学であったという判断だ。

でも、ところで、これ、小説ではないと書いたけれども、どう位置づければいいのだろう? 今野は「ヒラノ」に擬している。そこに語り手と中心人物との乖離が起きている。これは、フィクションとは言えないのだろうか? うーむ。