2012年2月27日月曜日

飛び出すしぶき、汗、砂……

メディアはテクノロジーの成果だから、以前のメディアにできなかったことを誇りたがる。雨を降らせたり火事を起こしたりということは舞台や小説では現実にはできないことだったので(水は近年では使うけれども)、映画ではともかく水が大量に使われる。やたらと火事が起こる。

そんなわけだから、3Dの技術に映画人たちが飛びつくのは当然で、そのことには期待も不満もない。むしろ、ディズニーランドの『キャプテンEO』から『アバター』まで、なんでこんなに長かったのだ、といぶかるほどだ。

とはいえ、別に3Dに興味があるわけでなし、取り立てて3D仕様の映画を観たいと思ってもいなかったのだが、観たい映画が3Dだったら、そりゃあ観るしかないじゃないか。

ヴィム・ヴェンダース『pina 3D ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』(ドイツ、フランス、イギリス、2011)

事前の予告編の最後のふたつ(『009』なんてのがあった!)がすでに3D仕様だったので、その時点でこの視覚装置の特徴は以下のふたつだと実感できた。1 文字が浮き出て見えること。2 飛来するものがスクリーンの枠を超えてぶつかりそうな錯覚を覚えること。爆破物の破片とか、飛沫、昆虫などだ。

ところが、始まってみるとこの『pina』は3D映像のもうひとつの特徴を観客の前に提示してみせるのだった。それが発見。それだけでヴェンダースにやられたと思ってしまうのだ。

ピナ・バウシュの主宰するタンツテアター・ヴッパタールのレパートリーのうち代表的な4作(『春の祭典』、『カフェ・ミュラー』、『コンタクトホーフ』、『フルムーン』)の舞台の模様の合間に、そのリハーサル風景やピナ・バウシュへのインタビュー、劇団員=ダンサーたちの語り、街中や野外でのパフォーマンスをちりばめたのがヴェンダースのこのドキュメンタリーの内容。最初の『春の祭典』が始まる前に舞台を作るその瞬間から、観客は実に得も言われない感覚にとらわれる。3Dによる舞台の奥行きは、どうにもとらえがたいのだ。

網膜への物体の表象は馴染みのものだ。普通の二次元の画面に再現された奥行きは、目で見るそれとは異なるけれども、これにもぼくらは慣れている。ところが、3D映像の持つ遠近感はそのどれとも違って、観るものに不思議な感覚を与える。野外に出るとそういうことはなくなるのだが、劇場の閉ざされた空間は、まるでおもちゃのように見える。

実際、2作めの『カフェ・ミュラー』の舞台がいつの間にか模型に変わって森の中に置かれ、それをふたりのダンサーが覗き込む、という展開など、はっとさせられたものだ。

そんな映像の仕掛けの中で展開されるのは、バウシュの偏執狂的なパフォーマンスの数々。関節が、いちいち手で触れて動かさなければ動かない、とでも言いたげに、微少なレベルで自覚され、そうした動きが、まるで世界を発見したばかりの子どものように、といえばいいのか、シーシュポスの仕事のように、と言えばいいのか、ともかく何度も何度も繰り返される。そうした繰り返しの動きの単位から場が構成されてひとつの物語が紡がれていく舞台。

みごとだ。

みごとであると同時に、なんだかおかしくもある。悲愴でおかしい。その舞台がすてきなのだな。モノレールでのパフォーマンスなどどこかのお笑い芸人(たとえば松本人志だ)のしわざかと見まがうもので、ぼくは小さく笑っていたのだった。

ところで、ピナ自身の踊る『カフェ・ミュラー』と『ダンソン』、それに何だったかのリハーサルで稽古をつける場面があるのだけれども、ピナ・バウシュはダンサーとしても圧倒的な存在感だなと思うのだった。

写真は通常よりもかなり高い値段の映画パンフレット。