2011年11月18日金曜日

十字架の墓参りに行ってきた

今日は学祭(外語祭)の準備日なので、授業はなし。ほっと一息。

それで、行ってきた。清水透写真展『マヤの民との30年』@神保町ギャラリーCorso

清水透さんはいわずと知れた、ぼくの先生だ。別にぼくは彼に卒論や修論の指導を乞うたわけではないが、まあなにかと目にかけてもらっているし、ぼくとしてもなついている。

彼はメキシコ南部チアパス州のチャムーラという町で、30年(以上?)にわたってフィールド調査をして、オーラルヒストリーを書いている。文化人類学というよりは歴史学者と自認している人。その彼が研究の成果としての本ではなく、その余滴として撮り続けた写真を並べて個展を開いたわけだ。最後は慶應で教師人生を終わり、引退したのだが、引退後は教え子の写真家などにも教えを乞うたりしながら、写真の腕も上げたらしい。

定点観測のようにある一地点からの風景を、時間順にならべ、村・町の発展のさまを印象づけたり、村の役職者の盛装を飾ったりして、一種、学問的(?)雰囲気も作り出し、面白い。

ポスターに使われている写真は、カメラ自体もディジタルに替わってからのものだろう。80年代の写真と見比べると、いかにもディジタル的な深みが印象的だ。

こうした写真につけているキャプションが面白い。女性が靴を磨かせている写真のそれなど、楽しんで考えたのだろうな、と思う。あるいはものによっては学問的な(たとえば著書からの引用)説明をつけたり、慶應の学内報みたいなものに書いた文章を添えたりして理解を助けている。

こういうキャプションや補助のテクストを読んでいると、この人はそういえば文章がうまいのだと、今さらながら実感する。十字架の墓場という場所を写した3枚の写真はとりわけ印象的だが、こうした場所を見つける感性と、それを伝える文章の雰囲気とが実にマッチしている。

十字架の墓場は標高二千何百メートルだかの山の木々に囲まれた場所にある。それ自体が木々のうろか、でなければ洞窟の中かと見まがうかのような鬱蒼たる木々に抱かれて眠る十字架たち。