2011年11月3日木曜日

訂正


やれやれ、あたしも焼きが回っちまったかね、昨日は「十大小説」と書かなきゃいけないところを「十代小説」なんて書き間違いをしちまって、これじゃあまるでYAみたいだ。

おや、ご隠居、今日はのっけから落語口調で、いってぇどうしたってぇんです?

いや、なにね、木村榮一『ラテンアメリカ十大小説』(岩波書店、2011)なんていう本の紹介文を書けっていうから、あたしも忙しい身、急に言われたって困るんだが、幸い今日は休日、ひとつやってみようじゃないか、ってんで、すらすらすら……と書いたはいいんだけどね、書いてるうちに、この木村御大という人が、どうも落語家かなんかじゃないのかと思い始めてね、で、思い始めたら最後、もうそのことが頭から離れなくなって、それであたしの口調までこんなふうになっちまったってわけなのさ。

へぇー、なるほどね。で、なんですか、その木村屋榮吉さんとか御大山とか太田胃散とかいう人は、何をしている人で?

木村屋じゃなくて木村だよ。榮吉ではなくて榮一。お前さん、木村榮一も知らないのかい? まったく、近ごろの若い衆は本を読まなくなったというが、本当だねえ。木村榮一も知らないってんだからね。いいかい、木村榮一というのは、そりゃあ偉いラテンアメリカ文学の先生でね、翻訳もたくさん出していらっしゃる。もう定年でおやめになったけれども、神戸市外国語大学では学長まで務められたというお方だ。

その偉いお方が、定年でやめて、笑福亭一門にでも弟子入りなさったと……?

そうじゃないんだよ。そのお方が、先ごろ『ラテンアメリカ十大小説』なんて本を上梓なさって、それを読んでいると、あたしゃきっとこの人は落語家に違いない、ラテンアメリカ文学者とは世を忍ぶ仮の姿に違いないと、そう思うようになったってわけなのさ。

そりゃまたどういう了見で?

たとえばこの人はある章をこんなふうに始めるんだね。いいかい、読み聞かせるから、耳の穴かっぽじってよーくお聞きよ。

へい。

私たちは夢という言葉をよく使いますが、いろいろな意味で使い分けています。「昨夜これこれの夢を見たんだ」という時と、「子供の頃の夢は何だった?」というのでは意味がちがいます。彼はぼんやりと夢想にふけっていたという場合も、夢という言葉が用いられていますが、とりとめのない空想にひたることを意味しています。(153ページ)

どうだい? 

どうだいって言われましても、……あっしには何のことかさっぱりで。

ああ、もうこれだからいやだね、無学の人ってのは。いいかい、これはマヌエル・プイグってアルゼンチンの作家の『蜘蛛女のキス』という小説を紹介する章の冒頭だ。だいたい本なんてものは、こんなふうに始まったら、この章は夢の話かな、と思って読者は読み進めるものなんだ。するってえとプイグという人は、夢をテーマにした小説か何かを書いた人なんだな、と思うわけだよ。

違うんですかい?

これが違うんだね。ぜんぜんそうじゃないんだよ。何しろこの『蜘蛛女のキス』ってのは、政治犯とホモの性犯罪者が刑務所のひとつ部屋の中で映画の話ばっかりしているって話なんだから。

へえ。そりゃあ楽しそうな話ですね。でもそれが夢とどう繋がるんですか? 

そこだよ。さっきの書き出しに続けて、何しろフィクションというのは叙事詩から小説まで夢を語ってきたようなものだ、なんて話を始めるんだね。『ギルガメッシュ叙事詩』や聖書や『オデュッセイア』やと、プイグそっちのけでそんな話をしちゃうんだよ。そしてさんざん壮大な話をしていたかと思うと、

叙事詩、小説、映画、と夢の物語を語り伝える乗り物は変化してきました。ここにひとり、スクリーン上の映画を通して人々に夢を見させ、楽しませたいと考えて映画の世界に飛び込んだものの、挫折して映画を捨て、小説に活路を見出した作家がいます。それがこの章で取り上げるマヌエル・プイグです。(156)

なんてまとめて、ついっと本題のプイグの話に入っちまうんだよ。その語り口がなんだか見事でね、これはもうお堅い本というよりは、まるで落語の「まくら」みたいじゃないか、って思ったのさ。ちょいと世間話をして、ひとつ笑わせておいて、ちょっと無関係にもみえなくもない本題に入っていくけど、実はこのまくらと本題は話が繋がっていることも多い、というね……たいした名人芸じゃあないか。

(……)

うーむ。落ちが作れない! もちろん、書評はこんな口調で書いたわけではない。ま、以上は思いつきの戯れ言だ。ともかく、『ラテンアメリカ十大小説』の紹介、書いて送りました。日本ラテンアメリカ学会の会報、「新刊案内」のページだ。