2011年10月1日土曜日

新学期を前に呻吟する


こんなふうな街角の小さなビルの2階、3席ほどしか席のないカフェで昼食。CDよりもレコードの数の方が数倍も多い、雰囲気のあるお店だった。

週が明けると新学期だというのに、まだまだその準備ができないでいる。夏休みにやり残したことが山積しているのだ。

原稿がある。

詩作するのでない限り(そして詩作などしたことはないのだが)、文章は段落単位で書きためておくことにしている。パラグラフ・ライティングというやつだ。あることについて書かなければならないとする。たとえば闘牛について書くとしよう。参考文献を読む。アンドレス・アモロス(どうでもいいが、この人の業績は、イスパニスタたちの間で正当に評価されているのだろうか?)の文章などを読むと、いろいろと自分なりに考えるところで出てくる。それを、主張内容ごとに段落に展開して保存しておく。もちろん、段落が複数になってもいい。最低限一段落ということだ。ともかく、読みながらそうした段落を作って、それらのファイルを「闘牛」というフォルダに入れておく。それらのファイルをまとめたり、繋げたり、繋げるために書き換えたりして、最終的に数十枚の原稿に仕上げる。

そんなことをするようになってから、比較的締め切りに遅れることが少なくなった。執筆の時間というのは、積み重ねた段落を整え、必要とあらば新たに書き足す時間だからだ。執筆に費やす時間が、圧倒的に少なくなるのだ。

ひとつだけ確実なことがある。どんな文章にしても、文章をその書き出しからはじめて順番に最後まで書こうとすれば、絶対にどこかの時点で詰まってしまう。そこから先に進まなくなる。ぼくらは知覚するようには表現はできないのだ。でも、はじめから書こうとしてしまう習性を抜け出すことは難しい。だから、ついついはじめから書き、途中で躓き、うんうんと唸り、机の前で無為な時間を過ごして、いつまで経っても文章はできあがらない。こんなことばかりだ。

で、5年くらい前から、従来のカード……というか読書メモなどやめてしまって、パラグラフの積み重ねをやるようになった。いろいろな文章がスムーズに仕上がるようになった。そんなわけで、近年は、卒論や修論や博士論文の学生にもパラグラフ・ライティングを勧めている。

なかなか伝わらない。中には反発まで示すものがいる。そんなこと、やったことがない。不安だ……等々。

おっと、学生たちについての愚痴を言うつもりはない。まあ、がんばれ、というだけだ。問題は、こうした実績から、少なくともぼくは、パラグラフ・ライティングを積み重ねるようにすれば、すんなりと原稿が書けることは自覚している。だから、それをやればいい。

……のだが、ついつい、はじめから順番に書く誘惑に駆られることもある。いや、駆られてもいいのだが、この誘惑に必ずつきまとうのが、躓いたら机の前で呻吟し、無為に時間を過ごすという行動パターンなのだ。このパターンにはまると、もういつまで経っても仕事ができないスパイラルに陥る。そこから目を背けるために、外出する。カフェで昼食など食べながら、後の席でおしゃべりしている近所の大学の学生たちを盗み聞きしたりする。

そんなふうにして、書き終えなければならないのだけど、まだ書き終えていない原稿があるのだった。

もちろん、こんな文章を書くのも逃避の一形態に決まっているじゃないか。