2011年8月20日土曜日

あえて核から一歩引いて考える

昨年、坂手洋二さんと仕事をする機会があったというのに、彼、および燐光群の代表作「だるまさんがころんだ」は観たことがなかった。このたび、江東区文化センターで3日限りの上演があるというので、行ってきた。ふだん燐光群がよく使う下北沢のザ・スズナリの小さな空間でもともと上演されたこの作品を300人くらいはキャパがあろうかというホールでの最初の公演とのこと。

海外派兵で地雷処理を拝命した自衛官、対抗する組との抗争に備えて地雷で自営しようとする暴力団、日本で唯一地雷を作る会社のとある会社員の家庭、片足が義足で、地雷処理の仕事をしようとしている女子大生と先の暴力団のちんぴら、国際紛争で住む村が地雷原になってしまい、難民となる前に地雷をしかけることにした、南洋のどこかの国の集落の者たち、などを中心に、90年代から2001(つまり、9・11)前後の紛争の時代を描いた傑作だ。

坂手が燐光群を立ち上げる直前ぐらいに小劇場を席巻していた劇団のレパートリーは、当時のサブカルチャーに歩調を合わせるように、黙示録的ヴィジョンに満ちていたように思う。核の存在を前提とした想像力に縛られ、核戦争後の終末の世界を描く、『マッド・マックス』的、永井豪的(『バイオレンス・ジャック』)物語だ。川村毅(第3エロチカ)の『新宿八犬伝』などだ。核という切り札に目が眩まされがちだけれども、ほとんど使われない核などよりも、90年代、よほど問題になったのが地雷やクラスター爆弾だった。前の世代の想像力に見切りをつけるように、現実の問題としての地雷を題材に、地雷についての蘊蓄をふんだんに盛り込みながら、地雷が存在することにより可能な思考を盛りだくさんに盛り込んで、これは新時代を画したというにふさわしい。フクシマによってまた核に考えが行ってしまいがちな現在だけれども、地雷を巡るこの考察はないがしろにしてはいけない。

義足が義手義足になり、やがてサイボーグ化していく女を演じる小山萌子がいい。