2011年6月30日木曜日

社会を考える?

ちょっと前に社会に不満を抱えてデモ行進をしたスペインの若者たちが、「政治の非道徳化」を訴えていたことは印象的だった。政治が経済に道を明け渡して非道徳化したのだと。

つまりこの裏には、経済が政治に先行してはならないし、政治は倫理によって(哲学によって)律されるべきだとの思想があるのだな。スラヴォイ・ジジェクはグローバリゼーションを「経済の脱政治化」と呼んでいたけど、経済が政治のコントロールを逃れ、逆に政治をコントロールするようになっては世も末だ、ということだ。

ぼくには恐怖とともに思い出す光景がある。いつだったかのホームカミング・デイのこと。学長の講演が少し延びた。学長はそこで村上春樹の話をしていた。彼の小説に出てくる音楽をいちいちかけたりしながらの話で、ぼくにとってはとても面白いものだった。

ところが、それが終わってからレセプションへと流れたとき、参加者のひとりが事務の人々に食ってかかっていた。学長の講演が延びたことへの苦情だ。学長本人に対してでなく、事務職員に向かって。そしてその人は、「文学なんてふざけたことを言っているからダメなんだよ。世の中は経済が中心なんだ。必要とされるのは経済なんだ」と、おおよそ、そんなことを言っていた。

その人は外語を出て、立派な会社に勤め、実社会で修羅場をいくつも潜り抜け、そこそこの地位まで上り詰めて来た人なのだろう。その人にとって重要なのは経済なのであり、経済人は、そのようにロビー活動によって学長の行動に影響を及ぼしうると思っているのだろう。

そういう人に対してぼくは恐怖を覚える。嫌悪を覚える。

ぼくたちの日々の生活の基盤には経済活動がある。ぼくたちは金を稼ぎ、その金で食料を買い、生き延びている。でもそれは基盤だ。たかが基盤なのだ。下部構造とはよく言ったもので、それがすべてを律するのだと思ってはいけないのだ。まだ法政時代に、同僚の粟津則雄の最終講義を聴いて、「いやあ、おれなんかよりよっぽど高尚な話をするね、さすがだね」と言っていた金子勝の見識を、経済学者には望む。経済人には、こんなのたかが下部だとの冷めた意識を望む。

だれもがやっているたかが経済活動だ。それを第一に据えるのは人間の知性の頽廃だ。経済人の圧力に屈する政治家は頽廃した政治家なのだ。