2011年6月25日土曜日

凍りつく夏

教室が一瞬にして凍りつく、というか、学生たちの興味が一斉にさーっと引いて、しらけた空気が漂う瞬間というのがある。ぼくたちにとっての恐怖の瞬間だ。

たとえば、しゃべりすぎて調子に乗って、少しばかり嫌味な冗談を言った場合。

ぼくもいい年こいて軽薄さはいつまでもなくならないものだから、時にそんなことがある。傷つきやすい学生たちの心を踏みにじってしまうようなのだ。そんなときには反省もするし、落ち込みもする。以後、そうしたことは言わないように気をつける。(それでも時々、同じ過ちを繰り返してしまうから、ぼくは軽薄だと言うのだ……)

一方で、こういう場合もある:たとえば今年、ゼミでバルガス=リョサの『チボの狂宴』を読んでいる。1回2章ずつ内容をまとめてもらってそれについて議論しているわけだ。トルヒーリョが部下の大臣たちの妻や娘を片っ端から手籠めにしているなんて記述や場面を読んでは、「トルヒーリョ、ひでー」「ありえねー」「エロい~」なんて言ったりしているのだが、その「ありえねー」などの感想をまとめて、「これはあれかな、社会人類学や文化人類学が「ポトラッチ」と呼んだ贈与競争による地位保全のありかたをトルヒーリョが部下たちに求めているってことなのかな? でも、だとすればトルヒーリョは何を与えているんだろう? 「ポトラッチ」、知ってる? モースの『贈与論』、どこかの授業で読まなかった?」なんて話に移る瞬間だ。そういう瞬間に学生たちは一気に興味と関心を遮断して自らの殻に閉じ籠もる。活動のスイッチを切るのだ。教室内に冷たい空気が流れる。冷房のサーモスタットがカチッと音を立てる。

仮にも大学の授業なのだから、「ありえねー」から「ポトラッチ」に移る瞬間は必要なのだが、その肝心の瞬間にこれなのだ。百人ばかりの教室だったら90人くらいが、この瞬間にスイッチを切る音が聞こえるような気がする。多くの学生たちが、あたかも知的・学問的な問題・言説に対して、あらかじめ本能的に心を閉ざすことをプログラムされているのじゃないかと、がっかりする瞬間だ。

もちろん、教育なんてものは選別のシステムだ、と開き直ることはできる。100人中10人でも、いや、たとえ1人でもスイッチを切らずに興味を示してくれる者がいれば、いいじゃないか。その連中をすくい上げ、伸ばし、勉強させる。それが教育の目的だ。でもなあ、90人がスイッチを切って気温が下がると、落ち込むのだよ、ぼくは。

せっかく名を挙げたので、『チボの狂宴』『贈与論』、そして今日の収穫の岩波文庫2冊:

ウィーナー『サイバネティックス:動物と機械における制御と通信』池原、彌永、室賀、戸田訳
J. L. ボルヘス『詩という仕事について』鼓直訳