2011年6月3日金曜日

アクロバシーを称える

卒論ゼミでベネズエラ中央大学の建築を思い出し、つつル・コルビュジエを考え、家に帰ってから、このところ評判の以下のテクストを読んでみた。

中沢新一「日本の大転換(上)」『すばる』2011年6月号、184-200ページ。

福島の原発の話から始まり、原子力エネルギーのごとき「第七次エネルギー革命」の産物(A・ヴァラニャックの言葉)は人間が生存場所とする「生態圏」の外部から無媒介にもたらされた最初のエネルギーであるというエネルゴロジー(エネルギーの存在論)上の位置づけをし、そういう「生態圏」の外部からもたらされたものとして、この核エネルギーに対応するのが一神教であると述べる。

実に中沢新一的な論理のアクロバットだ。これが実に面白い。それだけに留まらず中沢は、カール・ポランニーを引きながら、資本主義もまた私たちの「こころの生態圏」たる社会の外部から来たものであるとする。つまり核エネルギーの対応物だということだが、この資本主義というやつ、みずからの閉じたシステムに社会をも巻き込んでいくとんでもない破壊力に満ちたもの。社会に内在するキアスム構造(構成要素同士を結びつける働き)を粉砕していくのだ。しかもこの手に負えない資本主義を動かしているのが、いまや原子力であるという危険性を指摘したところで、「上」は閉じている。続きは7月号にて。

原子力を一神教と結びつけて考える中沢のような想像力の持ち主にとって、福島第一原発で放水車を操っている姿は、一神教の神にアニミズム的呪術で対抗しようとするみたいなものだ、などという比喩は、地震が天罰だと言ったどこかの老人よりはよっぽど何かを考えさせられる表現だ。