2011年4月1日金曜日

飛鳥山公園の桜を拝めず

3月29日にはスペイン語技能検定優秀者への文部科学大臣賞、スペイン大使賞その他の賞の授賞式に信濃町のスペイン協会に行ってきた。

賞をもらいに行ったのではない。あげに行ったのでもない。記念講演というのをしに行ったのだ。昨年末にノーベル賞をもらったことだし、何かバルガス=リョサについて話せと言われて、話してきた。バルガス=リョサの『若い小説家に宛てた手紙』のサナダムシのたとえ話のことなど。文学を志すものは腸内にサナダムシを飼っている者に似ていると、自分の人生のすべてがそのもののためにあるような生活になるのだという話。

その日はその後、卒業生の謝恩会に呼んでいただいた。

3月の終わりの日は、とっておきの昼餐会の後、金英蘭舞踊研究所第8回定期発表会に王子の北とぴあまで行ってきた。そこのさくらホールまで。

ぼくは朝鮮舞踊部の顧問なんてものをやっている。現在2年の学生で在日で子供のころから朝鮮舞踊を習っている者がいて、その彼女が創設した部。ちょっと印鑑を押してくれと頼まれたので、成り行き上、顧問になったという次第。

で、ぼくは朝鮮舞踊というものをほとんど知らず、その後、彼女らの学祭での踊りくらいしか見たことなかったのだが、今回、気づいたことをいくつか。

1)バレエでいうフエテ、すなわち連続旋回を見せたら、拍手が起こる。拍手していい。つまり、それがひとつの見せ所。
2)今年生誕百年を迎える崔承喜(チェ・スンヒ)によって近代化して体系化されたのが現在の朝鮮舞踊だということ。
3)これはつまり、植民地下で成り立ったということ。

バレエふうなところ、太鼓や鈴などの小道具を使うところが、なんとなく時代背景から理解できるような気がする。

しかし、そんなことより思ったこと。この朝鮮舞踊の特異な点が何かあるような気がして、それがなかなかこれまで言語化できないでいたのだが、それが分かったような気がした。

バレエに似ていながらバレエのような物語に欠けるのだろうか、と最初思っていたが、そうではない。物語はある。テクニックも要する激しい運動としての醍醐味もある。しかし考えてみたらこの舞踊は、ただ女性だけで踊られているのだ。群舞もソロも踊っているのは女性のみだ。男女で踊ることによる一種のエロティシズムというか、そういったものがないのだ(男女である必要のないエロティシズムというのはあると思うが)。そしてそのことこそがまさに日本による植民地化の時代に稀代の舞姫によって整えられた踊りの取らざるを得なかった必然的な方向性のような気がする。うまく説明できないけど。

フィナーレの盛り上がりは済州島における1948年4月3日の事件(米軍による「赤狩り」名目の虐殺事件)を扱った創作ダンス。ちょっと前に「物語がないのかな? いや、そういうわけじゃないな」などと考えていた自分が恥ずかしくなるほどの大きな物語。

王子までは大塚から都電で行った。学生時代に使っていた懐かしの路線だ。大塚駅は変わっていた。都電の車両がLRT(軽量軌道交通)風になっていた。大学時代の先輩にあたる同僚がいらしていたが、彼は早めに来て王子の駅に隣接する飛鳥山公園を歩いてみたのだとか。飛鳥山公園か! そういえばそろそろ花見の季節。まだ花は見ごろではなかったらしいが、ぼくはここに立ち寄るのを忘れていた。