2011年3月13日日曜日

ある感覚

さきほどの書き込みで、昨日の記事を自分で読み返してあることに「気づいた」と書いた。その「気づいた」ことを、もうひとつ。ぼくは昨日、「いよいよ死を覚悟した。パニック障害を患ったころの恐怖がよみがえった」と書いた。それが「死を覚悟」とまで言えるほどのことなのかどうかはわからない。でも、パニック障害を患ったころ……というか患い始めたころのある種の感覚がよみがえったことは間違いない。そしてまたつらつらと思い返すに、「パニック障害を患ったころ」のみならず、それ以前からある種の強い、非常に強い恐怖を感じたときにはそうなるから、ぼくはそれを「死を覚悟」したと表現したのだ。

頭を強く殴られたような感覚だ。そしてそのショックで視神経のあたりが充血したように感じる。同時に多くのものが見えるように思うことがある。昨日、粉塵が見えた、と書いたのはそういうこと。そしてまた、短時間にとてつもなく多くの思念が胸に渦巻くような感覚がある。思念というのは、とりわけ、生への固執と言ってもいい。あれをしていなかった。あの仕事を終えていなかった。あいつが生き残って俺が死ぬのは悔しくてならない、……等々と言語化できそうな思念が、一気にわき起こってくる。

人はみな、こうした感覚を持つのだろうか? 少なくともぼくはそんな感覚を抱くし、11日の晩、歩いて家まで帰ったのは、この感覚に突き動かされてもいたからだと思う。

これより少し和らげられた感覚(たとえば視神経の拡張はない)、でもショックには違いない感覚は、たとえば、地震のとき以来、何度もTVで流されている津波の様子や、津波の後の荒廃した町の情景を見るときに感じる。

ぼくはそれをどこかで見た記憶があると思っていた。さっき気づいた。『ヒア アフター』だ。クリント・イーストウッドの映画だ。あそこでは冒頭、旅先で津波に遭遇する主人公が描かれる。奇跡的に一命を取り留めた彼女が瓦礫の山となった町の中で旅に同行していた恋人にやっと巡り会うというシーンがある。

去年のチリの地震後の津波は水位がそんなに高くはならなかった。それを映像で見た記憶があったので、イーストウッドの描いた津波は、実は、いささか劇的に過ぎるのじゃないか、大げさじゃないかと思っていた。でも、今、こうして大規模な津波の様を見せつけられると、その後の荒廃した瓦礫の町を見せつけられると、『ヒア アフター』のシーンがにわかにリアリティを帯びてくる。

現実の問題の前にフィクションを据えるのはいささか不謹慎だとなじられそうだ。でもぼくはイーストウッドの映画を観てしまった。そのちょっと後にそれによく似た現実の光景を見てしまった。そしていずれの場合も、「死を覚悟」した時に近い強い感情を覚えた。イーストウッドの映像と、現実の映像が、繰り返しぼくの目の前に現れてくるようになった。

「死の覚悟」というほどではない。これらを見ても頭が殴られたようになって多くが見える気がするわけではない。でも、何かが胸の中で渦巻く感覚がある。これらの感覚をこんなに頻繁に感じているのは、いずれにしろ、とても危険なことだと思う。危険、というのは、ぼくの健康状態にとって、ということ。

……明日は大学に行って研究室を片付けてこよう。通常の生活に戻るのだ。