2011年2月7日月曜日

妹の扱い方

ミランダ・ジュライのもうひとつの面白みは、昨日あげた短編など、たとえばイヴ・セジウィックのいわゆる「ホモソーシャルな欲望」の裏をかくような展開であるというところにもあるのだな、などと考えていたら、まさにこの「ホモ・ソーシャルな欲望」と大逆事件の影から漱石作品を読む高澤秀次『文学者たちの大逆事件と韓国併合』(平凡社新書、2010)第1章に四方田犬彦『「七人の侍」と現代』からの次のような引用を見出した。

同性社会性が興味深いのは、断固として同性愛による肉体的接触を拒否するという点にある。その代わりに、親友の妹との結婚といった風に、男どうしで身内の女性を交換してより男どうしの絆を強固なものにする行為が奨励される。(高澤の著作では47ページ。四方田原文は未確認)

うむ。まさにミランダ・ジュライは親友(? 少なくともそうなりたがっているらしい人物)から妹を紹介されるという話だ。しかし、実はその妹が不在で……というのだから面白いのだ。

ところで、四方田のこの黒澤論は未読であった。また高澤を読んでいたのは昨日の書き込みとは無関係だったのだが、偶然、こうした漱石分析に出会ったという次第。時にこうした偶然の結びつきは生まれる。それが読書の楽しみ。

ところで、漱石といえば、ぼくは人並みに高校時代にいくつかの作品を読んだくらいで、たいして知らないし、高校時代に読んだものは、不思議な細部ばかり覚えている(たとえば外国作品なら人名とか。スタニスラス・グザヴィエ、サンセヴェリーナ侯爵夫人……等)という例に漏れず、彼についてもちょっとしたパッセージだけが思い返される。

向上心のないものは馬鹿だ。(『こころ』)
風が女を包んだ。女は風の中に立っていた。(『三四郎』)
女の涙に真実はない。すべてはギヤマン造りだ。(『行人』だったか『それから』だったか?)
意気地のない人ですね。(『三四郎』)

なるほど。これだけでも漱石が「ホモソーシャルな欲望」を描いていることが論証できそうだな、などと高澤に即して考えていたのだった。