2011年1月30日日曜日

「氷山の理論」補足とVII

昨日訳した箇所でピグリアが書いていたヘミングウェイの「氷山の理論」というのは、『午後の死』(1932)で表明されたものだ。

もし作家が、自分の書いている主題を熟知しているなら、そのすべてを書く必要はない。その文章が十分な真実味を備えて書かれているなら、読者は省略された部分も強く感得できるはずである。動く氷山の威厳は、水面下に隠された八分の七の部分に存するのだ。(高見浩訳)

前の訳では、ヘミングウェイのこの語らないという方策を「統合」だと訳した。統合とはsíntesis、つまりドイツ語風に言うとジンテーゼの訳だ。これまでずっと「命題」と訳してきたテーゼ(定立)に反するアンチテーゼが提示されると、そのふたつの矛盾を統合するものとして見出されるのがジンテーゼ。だから統合だ。「正・反・合」の「合」だ。弁証法における止揚。リフトアップだ。

ピグリアはヘミングウェイの例を続ける。「テーゼ」のVIIだ。

VII
「二つの心臓の大きな川」はヘミングウェイの基本的な短編のひとつだが、ここではプロット2(戦争がニック・アダムズに残した影響)がまったくわからないように仕組まれていて、まるでこの小説が彼の釣り旅行を細々と描いてるだけのように思われるほどだ。ヘミングウェイは技巧の限りを尽くして秘密のプロットをわからないように語っている。省略の技術を巧みに使っているので、読者はもうひとつの話の欠如に気づくという次第だ。

ヘミングウェイならチェーホフの逸話をどのように小説化しただろうか? 細部を綿密に描きながら賭けとその賭博が行われている場所の様子を語るのだろう。男がどんなテクニックを使って賭けるかとか、どんな飲み物を飲むか、といったことも語るのだ。その男がやがて自殺するということは決して語らないだろうが、まるで読者がそのことを知っているかのように短編全体を書き上げるだろう。

「二つの心臓の大きな川」(第1部、第2部とある。『ヘミングウェイ全短編1 われらの時代 男だけの世界』高見浩訳、新潮文庫、1995所収)がニックの川釣りを描きながら、彼が戦争の傷を抱えていてそれが癒されるという話なのだろうという解釈は一般的なもののようだ。高見浩は訳者解説でそう紹介している。作家自身が『移動祝祭日』の中で「この物語のテーマは戦争からの帰還だが、戦争への言及はどこにもない」と述べているらしい。

しかし、それを語らずして釣り旅行を語るヘミングウェイの細部の描写が魅力的だと高見は紹介する(「その文章の、また何と官能的なことか」)。だからこそ戦争の傷が癒やされる感覚を読者が共感をもって追体験できるということだろうか。残念ながらぼくは、ヘミングウェイの描写にめったに共感できない。うまいなと思う描写はところどころに感じられるけれども、共感はできない。ぼくはヘミングウェイ不感症だ。

戦争の傷を抱えた人間が、釣り上げた鱒を殺してヒクヒクとなるさまを見て、その傷を癒しうるものだろうか? これでは、また殺すことによってしか傷を乗り越えることのできない快楽殺人者としての自分の発見が待っているだけではないのか? そう推論すると、なるほど面白いとは思うけれども、共感はできないのだ。