2010年12月27日月曜日

社会主義について考える?

昨日、ノートを一冊使い終わり、新しいノートを卸そうとしたら、未開封のモレスキン・スモールがあることに気づき、久しぶりに小さいノートを携帯してみようと思った次第。やはり小型を使っていた2002-2004年、パニック障害で苦しんでいたころのノートを読んで、自分自身を哀れんで胸が張り裂けそうになったことも関係しているのかも。(右が胸が張り裂けるノート、左は映画のパンフ)

さて、社会主義について考える、と言っても、要するに、観てきたということだ。

ジャン-リュック・ゴダール『ゴダール・ソシアリスム』(スイス=フランス、2010)
パンフレットも近年ではまれに見る充実の作品。さすがはフランス映画社配給。3部(3楽章)構成。第1部「こんな事ども」は豪華客船内の何組かのカップルや人々の情景。第2部「どこへ行く、ヨーロッパ」は田舎町の一家とTVクルーの情景。第3部「われら人類」は第1部に立ち返って話を一気にまとめる断片の数々。

つい最近、もうひとりのJ.L.G.ことホセ・ルイス・ゲリンが、サラウンド・システムのステレオを駆使して街の喧噪(つまり、ノイズ)を、嫌味にならないよう、端正に秩序立てて構築した世界にぼくは驚嘆したのだった。さて、今回、本家本元(というのはゲリンに失礼だが、少なくとも順番では)のJ.-L.G.、ジャン-リュック・ゴダールは、もう嫌味になることもいとわずノイズをノイズとして放置して、ぼくらに歴史を提供した。

タイトル・ロールからノイズは現れる。いかにもゴダールらしいおびただしい引用からなる本編のその引用の源泉を紹介する字幕の画面が2度切り替わるごとに現れるビープ音だ。これが耳障りで、3分ごとに痰を切っていた斜め後ろの老人のノイズが気にならなくなったほどだ。

豪華客船での船旅を扱った第1楽章では、海の青が鮮やかなデジタル映像を見せてくれているかと思ったら、突然、解像度が低すぎて輪郭さえおぼつかず、色もにじんだ映像が挿入される。あるいはかすれたり、コンピュータのCPUだかメモリだかの不足でフリーズしたような映像も出てくる。ノイズとは映像のそれでもあるということだ。

この第1部では、かろうじてスペイン内戦中、スペインからソ連に渡る最中の金が紛失した話を巡って、その鍵を握るらしい人物ゴールドベルクとその孫娘らしい人物らの会話がなされるのだが、突然の風の音や船内放送(サラウンド・システムを利用したノイズの氾濫)などによって話がかき消され、いったい何をしゃべっているのかわからなくなる。ノイズとはこうして意味を剥奪されたセリフの内容でもある。

こうした三重のノイズが、やがて意味をなしていくかのように思えるから、この映画は不思議だ。もちろん、ノイズとして立ち現れ、挿入される映像が『戦艦ポチョムキン』やら『オーソン・ウエルズのドン・キホーテ』(!)などからの引用であることは、あまりにもゴダール的でもある。どんなものが引用されているかは、公式サイトでも確認できる。引用ではないが、船の中の誰の部屋だったか、絵を描いている誰かの船室の机の上にはナギーブ・マフフーズの本が載っている。こういうところがゴダールだ。

ノイズの重なりが作り出す偶然のエピソードがふたつある。いずれもぼくの観ていた1回きりの出来事だ。終わり近く、船の甲板に吹きすさぶ風の音に混じり、映画館内のファンが壊れて立てる強い風の音が聞こえてきた。終わってから館内の人がお詫びを言っていたが、なに、これこそこの映画にぴったりの出来事だ。

本編前のCMで、成海璃子によるクラレのものが流れた。アルパカが出てくる、あのCMだ。例の痰を切ってばかりの老人が連れの人に、「なんだあれは? 何の広告だ?」と大声で訊いていて微笑ましかったのだが、映画の中でもアルパカが出てきた。さすがにその老人、映画中だけあって、そのことについて特にコメントはしていなかった。本当は欲しかったところ。「ああ、さっきのあれか」と。