2010年12月7日火曜日

あまり知らない学生の将来を心配する

で、ともかく、月曜日には慶應に行った。自主ゼミという形式の勉強会。ここで何か映画について話せと言われたので、先日『コヨーテ』に書いたことに少し肉付けし、実際の映像なども少し見ながら話した。

ぼくはその『コヨーテ』の記事でリプステインの『死の時』(1965)がマカロニ・ウエスタンを思わせると書いたのだけど、このことの意味はもう少し考えてもいい、と思いながら話していた。

大学近くの沖縄料理店で懇親会。

そして今日は法政で代講しているゼミの二次募集面接。ちょっと気になることがあった。仮にも少しでもこの面接に受かりたいと思うなら、嘘をついてでも、そのための方便を弄しなければなるまいにと思うところで、何だか屈託なく素直に調子外れなことを言う学生が数名いた。うーむ、「戦略」という単語を知らないのかな、と言いたくなった。

そんなことを現役のゼミ生たちに話したら、嘘をつくなんていやだ、と即座に反応する学生がひとり。

もちろん、これは一部の例だ。一般化するつもりはないし、世代の問題かどうかもわからない。けれども……どうしたものかな、と思う。

戦略的に語るということを「嘘をついてでも」と装飾することは、一種の偽悪趣味だ。嘘などつきたくない、というのは一種の自己陶酔だ。ぼくが「嘘をついてでも」と言ったのに対して「嘘はいやだ」と応えるなら、それは単なる2つの言説の衝突だ。挑発的に言うぼくも悪いと思う。でも、「嘘をついてでも」と偽悪的に語られる以前から嘘をつけない(いや、つまり、戦略的になれない)という人がいるのなら、それは何かイデオロギー的だと思うのだな。

面接で嘘のつけない人の将来が心配だ。