2010年8月7日土曜日

行列嫌いなぼくが列を作って観た

起きてすぐ思い立って、公開初日第1回上映にと、青山のシアター・イメージフォーラムに行ってきた。何かのBL映画の整理券待ちと一緒にされて、炎天下、並ぶ羽目になった。

ホセ・ルイス・ゲリン『シルビアのいる街で』(フランス、スペイン、2007)。傑作だ。

6年前にストラスブールのバー《飛行士たち》Les aviateursで出会ったシルヴィーという女性を捜してその街に逗留している男(グザヴィエ・ラフィット)が、彼女が入学したと言っていたコンセルヴァトワール前のカフェで彼女を捜し続けるという話。客の女たちをスケッチして過ごすうちに、それらしき女(ピラール・ロペス・デ・アヤーラ)を見つけ、後をつける。トラムに乗った彼女に話しかけると、人違いと発覚、その夜、思い出の《飛行士たち》で知り合った女性客と行きずりの関係を持った男は、翌日もいつものカフェで女たちの顔をスケッチして過ごす。

ただそれだけのストーリーだ。題材として短編映画に似つかわしい。これが短めとはいえ、かりにも85分の長編として作られるのだからすごい。要するに、ストーリーなど問題ではないのだ。セリフもほとんどなく、それなのにとてもはらはらドキドキさせられる映画だ。これだけの他愛ないストーリーを見せるその見せた方がすばらしいのだ。何と言ってもこの映画は主人公やわれわれ観客の視界を遮ることによってやきもきさせる作品だ。カフェにたむろする多くの女たちをスケッチするために眺める主人公の視界は、他の女に遮られる。焦点を当てた人物の手前にまったくピンぼけな他の人物が割り込むことによって、見たい相手をまっすぐ完全に見ることのできない隔靴掻痒の感覚が観客にも伝わる。あるいはカフェのウィンドウの向こう側は光と外の景色が映り込んでよく見えない。わずかに影がさし、ガラスが鏡の役割をすることをやめた瞬間に、店内に探していた女の姿が映る。しかし、一瞬目を離すと、また光が差し込んでウィンドウの向こうは見えなくなる。再び見えたときには彼女はいない。こういう風に人物や観客の視界を欺き、「やきもき」させる、実につれなくて楽しい映画だ。

視界だけではない、音もわれわれをどぎまぎさせる。街の喧噪、というか、サウンドスケープとでも呼ぶべきものの処理が繊細で、観客を飽きさせない。靴音や車輪の音、フランス語のみならず時にスペイン語やドイツ語、英語が飛び交う街の人々やカフェの客の話し声(ただし、字幕もなく、聞き取れるほどの大きさでないものも多い。つまり、発話内容は問題とされない。騒音、もしくはサウンドスケープとしての話し声)。そういったものをサラウンド・システムのステレオ装置をフルに利用してうまい具合に絶妙の場所からそれにふさわしいタイミングと大きさで聞かせる。音声およびポストプロダクションの勝利だ。男がシルヴィーだと勘違いした相手を見つけ、追い掛け、話しかけるまでの1時間近い、大半は沈黙の時間が、ぜんぜん苦痛でないのは、この音声処理のおかげだ。

たとえばこうした音声が、視界に見えるものとシンクロしながら、われわれを「はらはらドキドキ」させるのは、男が女を追っている最中、間にトラムが入り込む瞬間だ。少し離れて女を追う男の視線でカメラは回っている。そこにいきなり、トラムが視界を横切り、手前のスピーカーから大きめの車輪や車体の音が流れ、観客はびっくりする。トラムの窓の向こうの女は見えたり見えなかったり、幻のように見えたりで、目がくらむ。これが、10秒くらいのシークエンス。実に絶妙ではないか?

生半なデュアル・オーディオしか持たないのならば、これをDVDで家で見ようなどと考えず、サラウンド・システムを備えた映画館に観に行かなければならない。

ちなみに、大久保清朗が『キネマ旬報』8月下旬号に書いたレヴュー「あわいの官能」は、この映画のインスピレーションがどこから来ているかを示唆していて、実に刺激的。