2010年1月23日土曜日

悲劇

フェデリコ・ガルシア=ロルカ『血の婚礼』は悲劇の復活を期して書かれた戯曲で、クライマックスの森の中でのシーンに死を暗示する月や乞食の老婆を配して詩を詠わせている。ジョージ・スタイナーの言うように悲劇とは詩の同意語なのであって、この詩的で幻想的な森の場こそが『血の婚礼』の悲劇性を保証している。

ウンプテンプ・カンパニー第8回公演「驚きの音楽劇」第2弾『血の婚礼』(シアターΧ)は、「音楽劇」を謳うだけあって、脇役たちを時にコロスに回し、歌を歌わせ、よりわかりやすい悲劇の仕立てにしている。そのわりにたとえば月の詩(「わたしは川面に浮かぶ円い白鳥……」)にはメロディーをつけず、詩として朗唱させている。

2007年のアトリエ・ダンカンのときもそうだったけれども、フェリックス家と花婿の家の因縁をセリフで示唆するだけでは足りないとの意識があるのか、原作にないイントロダクションを入れてそれを説明している。この種の過剰説明が果たして本当にいいものか、ぼくには分かりかねる。ただし、そもそも「音楽劇」を謳ってミュージカル仕立てにしたそのミュージカル部分は、悲劇の通俗版としてのオペラの、そのまた通俗版としてのミュージカルに似つかわしい、本質的に過剰説明なのだから、見る側としても最初からその覚悟はできている。だからいやみでもなかった。

音楽はピアノとコントラバス、ヴァィオリン。既にメロディーの存在する子守歌や「目覚めよ、花嫁」の歌にオリジナルのメロディー(ピアノの神田晋一郎が作曲)をあてがい、そこからさらなる展開をみせる。



シアターΧは、周知のごとく、両国にある。両国といえば隅田川だ。都市はやはり川を挟んでいなければと思うぼくにしてみれば、なんだかうきうきする場所だ。隅田川はこのあたりはもう潮のにおいを含んでいる。

途中で買ったこれ。ラウラ・レストレーポ『サヨナラ――自ら娼婦となった少女』松本楚子、サンドラ・モラーレス・ムニョス訳(現代企画室、2010)。

コロンビアの作家レストレーポ初の翻訳。「サヨナラ」という名の娼婦の話。何はともあれ、レストレーポが訳されたのだから、めでたい。

……しかしなあ、最初から

当然のこと、サンティアゴへ、愛ゆえに
でも、どこから彼女の心に入ればいいのだろう?
セント=ジョン・パース

なんてエピグラフがあったら、それだけで読む気がなくなるな。何もどこの誰かも分からず、検索しても見つからない人物ではない。サン=ジョン・ペルスだ。仮にもノーベル賞詩人だ。少なくとも2分もあれば見つけ出せるはずだ。そんな必要な調べ物もせずに「セント=ジョン・パース」なんて書いてそのままにしているというのはどうかと思うな。

些細なことだ。とても些細なことだ。でもそんな些細なことだからこそ、この程度のエラーを犯す人間は信用を失うと思うのだな。ちょっと前にぼくは「辞書を引こうよ」と書いたけれども、事典も引こうよ、と言いたいものだ。

この場合、『新潮世界文学辞典』とか、『集英社 世界文学大事典』とかを引けば一発のはずだ。ぼくはさすがに集英社の『大事典』を家に置く余裕はないが、月数百円を払ってウェブ版『大事典』をいつでも検索できるようにしている。ついでに言えば"Japan Knowledge"も活用している。

それから、もう一冊。

大江健三郎『水死』(講談社、2009)