2009年8月27日木曜日

スペイン小説二題

やっぱり都会には出てみるものだなあ、と思ったのは次の2つの収穫のため。

R・S・フェルロシオ『アルファンウイ』渡辺マキ訳、スズキコージ絵(未知谷、2009)
エミーリ・ロサーレス『まぼろしの王都』木村裕美訳(河出書房新社、2009)


しかしなあ、ぼくはスペイン人(カスティーリャ語圏スペイン人)の名前をセルヴァンテスなどと表記する人間がまともにスペイン語の訓練を受けたと認めたくはないのだよな。たとえその人が上智大学外国語学部の卒業という経歴を持っていても(外語の学生にだってこうした手合いはいる)。ましてやその人がラファエル・サンチェス=フェルロシオのことをR・S・フェルロシオなんて表記していたらますます。

スペインのカスティーリャ語ではb/vの区別はない。他の国では区別を教えられたりするからともかくとして、だからスペイン人の名に「ヴァ」なんて書いていた日にゃ脱力する。あるいは日本語の表記を知らないだけなのだろうか? 

もっとも、ぼくだって掲載先があらかじめ決定し、パブリシティも済ませていた関係で「ヴォス」という表記をあたかもぼくが意図して使ったかのように使わざるを得なかったことがあるわけだから、大きなことは言えないのだけど、でもともかく、訳者の手になる後書きでサンチェス=フェルロシオが「セルヴァンテス賞」の受賞者だなんて書いてあると、ため息が出るのだよ。

ましてや、「R・S・フェルロシオ」だ。

サンチェス=フェルロシオなのだ。この際、「サンチェス」と「フェルロシオ」の間がナカグロ(・)か二重ハイフン(=)かはどうでもいい。なんならナカグロにしてもいい。でもこの人は「サンチェス」からが苗字なのだ。「ガルシア=マルケス」とか「ペレス=ガルドス」「ガルシア=ロルカ」、「バルガス=リョサ」と同じく、この人は「サンチェス=フェルロシオ」であるべき。

ぼくが大学時代に教わった、ある頑固な先生は「スペインでは誰もロルカなんて言わない。ガルシア=ロルカでなければならない」と主張していたらしいが、これはいかにも原理主義者的な勇み足。実際に「ロルカ」で済ませられることも多い。現在のスペインの首相など「ロドリゲス=サパテロ」と呼ばれることの方が少ないのじゃないか? だから上に挙げた名の人々が「マルケス」、「ガルドス」、「ロルカ」、「リョサ」と呼ばれることがあったとしても、そこに目くじら立てるつもりはない。でも少なくとも表紙の正式な著者名と認知されるべきものが入る場所に、「S・フェルシロオ」はないと思う。これではお父さん(サンチェス=マサス)がかわいそうだ。

スペイン語圏の多くの国々の人間には必ず姓が2つある。ふだん律儀に2つとも表記するかどうかは慣習の問題なのでどうでもいいが、正式書類には2つの姓の併記を求められる。ぼくだってメキシコに滞在中の許可書やカラカスでのアパートの契約書には「ヤナギハラ=オオノ」と表記していた。最初が父方の姓、ふたつ目が母方の姓。で、習慣上、面倒だから父姓だけを名乗る人はいくらでもいるが、とりわけ「ガルシア」だの「サンチェス」だの掃いて捨てるほどいる姓の人などは母姓も併記する人が多い。すると、確かに母姓だけで呼ばれる人も多い。でも、やはりいくらなんでも「R・S・フェルロシオ」はいただけない。

サンチェス=フェルロシオはハビエル・セルカス『サラミスの兵士たち』(これの紹介は閉鎖されたかつてのブログに書いた)に登場して、父親サンチェス=マサスの内戦中の体験を語り手=主人公に教えて物語を起動させる重要人物。

ちなみに、木村裕美はイベル・アジェンデの『天使の運命』を翻訳したことになっている。これはおそらく、出版社側の不注意。イベル・アジェンデだ。