2009年2月11日水曜日

外国語教育の難しさを思う

「外国語教育の難しさを思う」というほど深刻な話でもない。あるシンポジウムに出なければならない。発表しなければならないのだ。それだけでも重荷だというのに、それに呼ぶメキシコ人社会学者との連絡係をしたり、彼のペーパーの翻訳のチェックをしたりしている。どっちかに集中させてくれ、と叫びたい。

で、そのペーパーの訳。スペイン語版と英語版がある。英語版をバイト学生に訳してもらったので、チェックしてくれと言われた。一行読んでやれやれとため息をついた。またか。結局一からぼくがやるようなものだ。

英語版とスペイン語版の齟齬なんて問題ではない。そりゃあ英語版の方が舌足らずになっている箇所はあるし、1、2カ所明らかな間違いもある。でも、それは1、2カ所だ。舌足らずな箇所というのも、理解するには問題ない。形容詞が一個足りないくらいのものだ。そういった点とは無関係な場所で、どうもいただけない訳なのだ。

時々、とんでもなくとんちんかんな訳をしている。どうしてだろうと原因を探ってみると、要するにその段落で言われていることを把握せず、枝葉末節で微妙な誤解を重ねたあげく、そこにたどり着いているという次第。結局この人は、わからない箇所をわかろうとして何度も何度も文章を読み返したり、一字一句辞書を引いてみたりという作業をしていないのだろうなと予想する。これではテクストをわかったと思う瞬間の快楽を感じていないのだろうな。

何よりもいけないのは、どうせチェックが入るだろうからと思っているのか、わからないところをわからないままに放って置いていること。スペイン語の読みがわからないからとアルファベット表記のままにしたり(そのくせ、いくつかはカタカナにしようとして間違えていたり)、文意のくみ取れない箇所に下線を引くだけであなた任せにしたり(いや、でもね、下線の引いていない部分にとんでもない間違いがあるのだよ)……で、あげくに、橋渡しの人に伝えたメッセージが、「プロテスタントとカトリックの文脈の差というのがわからなくて、しっくり来ない箇所が……」だと。

いや、そんな大げさな話じゃないよ。君がわかっていないのは "would" のニュアンスなのよね。

……あ、いかんいかん。知らない学生に対する愚痴を言っている。個人攻撃というよりは一般的な教訓だと取っていただきたい。

つまり、辞書を引こうね、というお話。

早いところ作業の続きに取りかからねば、危機だ。とんでもない危機だ。まったく時間がない!